1999年に書いた文章です
と、いうことを最近よく考えます。女性の盛りの真っ只中にいるのに健康を崩していたり、子どもを産み育てていないので身体のせいにできないことが多いからでしょうか?これについてのアップダウンにもまれてしまっているような…。
性衝動についての描写はどこでもかしこでも多くなりました。それを避けることのほうがむずかしいくらいで、子どもの目に触れないようにと大人がコントロールせねばならぬほどです(これの是非論はまた別の話です)。愕然とするのは、それを目の当たりにしても何も感じなくなってしまっている自分です。そんなときに思い出す風景は、まだまだオーガズムも知らなかった頃に体験した「完璧すぎるキス」です。
満天の星空のくねった道を車で上り、風景が開けたときには海が見えました。まっくろな海にたくさんの宝石箱をひっくり返したようなライト。震えてしまうほど寒いなかで、寄り添ってみて距離を測りつつ、向き合って、髪を撫でられて、冷たい頬を手で包まれて、月明かりのなかで長いあいだ見つめあって、少しずつ顔が近づいていき、やっとやっともどかしさのあとに暖かみを手に入れて、まだまだ欲しいと思っていてもくちびるを引いて、もう一度顔を見る。
「あ、これは夢じゃなかった」と思えて、「もう一回」と望める。「もっとすごいのを」と心待ちにしてしまう。そのときに何となくわかってしまうのです。私が肉欲の誘惑に勝てるか勝てないのかが。
それはたぶん、淑女のように、宝物のように扱ってもらえたヨロコビに応えるという行為だったのかもしれなく、肉欲とは呼び難いものであったと思います。いやいや、たぶん正確に言うと、彼(相手)の肉欲に勝てなかったのであると思います。その「完璧すぎるキス」を演技や技巧として使える男の人はいました。それはあとから峻別できるようになったもので、その当時にはまだわかっていません。「求められていること」がうれしく、それについつい従ってしまう誘惑に勝てなかったのでしょう。自分を美しいと思わせてもらえることに、私は負けつづけてきたような気がします。
そして大人になっていくに従って、直接的な、性をフルに楽しむための儀式をおざなりにする人にもたくさん逢います。そうなるとやはり求めてもらっていない不満がくすぶるようになり、いつしかそれに慣れ、心がついていかずに性衝動の火が鎮まってしまいます。これをロマンが足りないと呼ばないでなんと呼べばいいでしょう?
男女の違いを大いに語る人もここで出るのでしょうが、私は個人差のほうが大きく、おそらくその「求めてもらいたい気持」は誰にでも大なり小なりあるものであると思います。自分に自信がないからたくさんある、という統計も事実かもしれませんが、私は人としての自分の芯になるものに自信がありますが、それでもやはり繰り返しくりかえし求めてもらってからの性行為というのを、どうしても求めてしまいます。それが上記のような「完全すぎるキス」の変形であったとしても、それは同じ相手の同じ風景と技巧に飽きないためのバラエティのひとつであるだけで、その根底に流れていてほしいのは、「求めてもらいたい気持」です。
たぶん身体の具合が悪いとそれが減るのでしょうねぇ。「求めてもらいたくない気持」へと変わってしまい、どうしても性衝動が引っ込むようになるというか。セックスレスの原因もきっとストレスによる身体と心の不均衡が第一の原因で、ストレスが溜まるとそれを解放するために性衝動への刺激と反応へ流れる人と、そうでなく心が閉じてしまい、身体も自然に閉じる人と差異があるのでしょう。
「求めてもらいたい気持」の顕れとして、朝起きてまだ歯磨きもしていないのに手を伸ばしてキスをしたいと思えるかどうか、なんて考えてしまいます。時間がないと余計にいけません。ネコが見ていてもやっぱりいけません(子どもだったら余計にいけませんね…)。細かい雑多なことに囚われてしまって、どうしてもスキンシップまでがなおざりになり、どんどんと性についての関心が減ってしまいます。それでも生きていけてしまう人間ってなんて哀しいんでしょ。
何となく臆病であるな、と思うのは、先に相手に求めてもらわないと嫌だよ!というのがあります。これは社会性のついてしまった哀しいさがなのかもしれません。シグナルとして手を伸ばしたり、ひげに触れたり、衿を正したりするのはかまわないのですが、私個人としてはどうしても相手に拒否されるのが怖いのだろうと思います。
そういう自分の「求めてもらいたい気持」を正当化するために、若い頃には「キスしてもいい?」なんて聞く男は野暮すぎる、と非難していたもんです。「何言ってるのぉ!キスはするもんじゃなくて奪うもんよ♪」と。そしてこのへんの微妙なCourtship(求愛行為)がわからない場合には、NoをNoだと受け止められないレイプまがいのことも起こるような世の中なので、遊び心満載のNoが言えなくなったりします。恥じらいの「いや」と拒否の「いや」の違いが本当にほんとうにわからない場合はきっとあるのでしょうが、そんなにこなれてない人が増えてしまうのはつまらない世の中であると思います。だから性に貨幣価値がついたりして、どんどん世の中は複雑になります(まぁ、これは昔っからですが)。そして純粋な恋心から出る、Exclusive(限定された、独占的な)な関係での性行為がいちばんだと順番がついたり、どんどん不自由になります。面倒になってどんどん腰が引けてしまいます。マニュアルちっくな性行為におもしろみがなくなったり、過激な性を追い求めたりする気持も否定されてしまいます。それはみんなアタマのなかでの悶絶であるのに、誰かに聞かされたりするとうんざり状態で、自分で自分を決めることが不自由になってしまっています。
いろいろなバラエティがありますし、それに貨幣価値がついたり、婚姻に至っても何でもいいけれども、根底にあるものが、お互いが「求め合う気持」であるのが合致したときにいちばん肉欲が昇華されて、誘惑に負けてよかった♪となるような気がしています。プロセスで「求めている気持」と「求められている気持」がすれ違い、それを感じてしまったときに、あの微妙な快楽が目減りしていくような気が私にはしています。その動機が「美しいと賛美されている気持」であろうが、お金をもらっていたり愛人だったりしていて「貨幣価値の分だけ奉仕している(してもらっている)」であろうが、行為そのものをしているときには、求め求められていないと、あとが空しいのではないかなぁ、と。
それが複雑になったとして、3人プレイをしようが何しようが個人の性嗜好だからいいのですが、求め求められている均衡状態は取りづらくはなるでしょう。SMとかの性嗜好でも同様で、その絶妙さはもっとさざなみの多いものになるのではないか、と想像します(ごめんなさい、私は深くこれについてわかってないと思います。やってみてから言え、なのかもしれませんが、ちと深みにはまると他のこととのバランスが取れなくなりそうで、悟るまで体験する勇気ないっす)。
そして、きっと、自分が「ひとつになりたい」人の嗜好があり、容姿の準備や場所やタイミングなどなどのいろいろな要因が重なって、肉欲の誘惑を避けてしまい、関心が薄れてしまうことが多くなってきて、複雑な暮らしを強いれば強いるほど、簡単に肉欲の誘惑に勝ててしまえるようになっていくのではないかと思われます。ストイックなことも大好きではありますが、ストイックなのは燃え滾るような火宅があってこそ映えるものであるとしたら、私はもう少し、自分に肉欲に負ける誘惑があるとうれしいのに、と思っているところです。リハビリしている最中なんだからないほうがいいよ、なのでしょうが、なんだかやっぱりさみしいぞ、と(爆)。
もっと単純に求めて求められる瞬間がたくさんあったほうが、他の複雑でうんざりするシステマティックなことも軽いステップでこなせたり、情緒的なモノを見る目も深みがかかったりするのではないか?とも思っています。リハビリを終えて、至ってノーマルな暮らしができるようになったらば、ちと行動に移せる回数についても注目してみたいな。
あ、私の挨拶のHugと直接的なセックスに関連性をやたらと持たせないでください。挨拶と性衝動は違います♪(爆)
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って、こんなのを書いていたころがなつかしいです(笑)。おまけとして映画からのロマンティックシーンをお楽しみください♪
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