どうしてこうも自己中心的なことが横行しているんでしょね。ほとほとつらくなっちゃいます。あ、私は直接的に「被害者」というような気持ちはめったにありません。たまにはあります。私もナマミの人間ですので、冷たいだけじゃないですので、どうやって不愉快を表明するか悶絶します。いい解釈しまくりますよ。人のいやらしい行為を「嫌い!」と拒否するのは、最後には自分が不愉快になります。どっちにしても互いがそこそこ歩み寄れない限りは、結果は不愉快なのです。嫌いになろうが、受け取り続けようが。
「献身や媚び」と「自己中心的・ナルシズム」のギャップってどうにかならないかなぁ、とか観察します。私がさんざん書いてきた二元論です。他人に対して親切で優しくて暖かなところと、冷たくて身勝手で自己愛の強いところです。なので、二元論をいろんな軸を使って、慎重なステップを踏むのです。まぁ、受け取り方は人それぞれなので、私の指しているそれらがどういうものか、「おめぇだってそーだろーが!」とお叱りを受けることもありましょう。
私には「献身や媚び」はきっぱりはっきりないです。もう卒業しました。というか、その素養がないんだな、きっと。犠牲になるのなんかまっぴらだし、犠牲になって気持ちよかったことなんか一度もないし、誰かに何かをしてあげて気持ちいいなんて思ったことも一度もないです。
私ができることはせいぜい「いっしょに話をすること・遊ぶこと」「いっしょに酒をかっくらうこと」「遠くに離れて考えること」くらいで、やっぱり結論は「私が私らしく楽しい人生をつらくても哀しくてもがんばること」でしか、他人になんか何もできやしないと思います。
「子どもを持ったらあなたにもわかるわよ」って声がどっかから聞こえて来る予感がします。うーん、私は赤ちゃんを真の意味で無力だと思ったことはありません。あのかわいさはそれだけで他人を動かす何かがあります。おサルさんや他の社会生活を営む動物すべてに、ひな・新生児をどんな大人でもかわいがる本能があります。私にもあるよ…。でもそれをふりかざして献身する気持ちにはなれんなぁ。英語では Alloparental behaviorと呼ぶのです。
誰かに好かれ容認されないと社会生活は営めないものでしょうか?「容認」される仕組みになっているはずなのだから、「好かれる」必要性はあるのでしょうか?嫌われて反対されるよりはずっとまし?うーん、私は好き嫌いの基準が本当にわからないのよねぇ・…。みんな好きだよなぁ。
私はその昔、フェミニズムの歴史をひもとくのに、「母が娘に伝えること」の理屈では測れないような、一概には言いきれないモノを書こうとしていたのですが、途中で挫折しました。性差をはじめ、私は物事を「同じ・違う」を軸にして測ることにあまり意味を見出しません。なので、誰かが自分以外の他人を「彼は男だから」「あなたは女だから」と、大切なContent(内容・内質)やTime(歴史・時間)をわりと大雑把にしか検証しないことに、非常な抵抗を感じます。
けれども私はフェミニストではありません。
下のカテゴリーが何かわかるでしょうか?
「私は自分であることが好きである」「私は自分であることが嫌いである」
「私は人間であることが好きである」「私は人間であることが嫌いである」
「私は◯歳であることが好きである」「私は◯歳であることが嫌いである」
「私は女(男)であることが好きである」「私は女(男)であることが嫌いである」
「私は◯◯の出身であることが好きである」「私は◯◯の出身であることが嫌いである」
「私は主婦(学生・会社員・親・会社役員・総理大臣など)であることが好きである」
「私は主婦(学生・会社員・親・会社役員・総理大臣など)であることが嫌いである」
「私は日本人であることが好きである」「私は日本人であることが嫌いである」
この他にも「文系・理数系」「貧乏・金持ち」「ブス・美人」「背が高い・低い」などなどのいろいろな人間を分類する形容詞が入ります。
これはうまく使われればとてもおもしろいユニークさ・特別さを顕わす基準になる、生き物を形容する言葉ですが、間違って使われると差別や偏見や誤解や哀しみをたくさん生みます。私はこれを敢えて「自分が自分を見ている」形にしました。けれども、自分を基準にして自分だけの視点で他人をも判断・区別・分類していないかどうか、胸に手をあてて考えてみてほしいなと思うのです。
よくカチンと来るんですが、私、「彼は独身だからわからない」「「彼女は主婦生活にどっぷりだから感性が磨けない」「アメリカに長い間住んでてこれからもアメリカに住むんだから、日本よりアメリカのほうが合っているだろう」だのという、無責任でさりげない言葉たち。
他人をそうやって見てAssume(推測・憶測)するから、自分も自分でそういう思考の枠にはめ込まれて、余計にみんなを不自由の箱に押し込めてるんだじゃないのかねぇ…と思います。そういうカテゴライズを自然な思考だとみなしている人ほど、自分のことも「主婦だからぁ」「◯歳だからおばさん」「働いたことないしなぁ」などなど評価しているのをよく目撃します。「うーん、それは社会的役割とか生物的地上存在年数で、どんな生業であろうがどこから食材を得ていようがとりあえず働いてなければ大抵の人は生き延びられないし」なんて考えると、そういうカテゴライズはあまり有効じゃないんですが、何か特に有効なことがあるのだったら、とっても教えてほしいです。
そのカテゴライズする目的が、日本社会全体だったり、世界平和のためのリサーチとかだったら意義あるでしょうね…。学校で学業向上させるための作戦立てたり、勉強方法を画一化させようとかいう(私にはそれ自体何の意味があるのかわかりませんが)推進委員会があるならば、けっこう精密に情報を処理してくれるでしょう。責任ありますから、そういう文書には。
でも個人の発言で、他人に向かってそういう「決め付け」「カテゴライズ」はちとひどいのでは?そして自分に対してそれはちとひどいのでは?「日本人ってさぁ」って言って枠決めして当てはまらない人っていうのは、日本人じゃないですかね?「おかしい」「変」「異常」「なぞ」でしょうか?
そうして自分や自分の大切な人を粗末にして、いいわけがありませんね。O歳児までにこれくらいはできないと、なんていうのは学者に任せておいてあげてください。今、私たち個人にできることは、自分で自分の面倒を見ることでしょ。で、それができて初めて、その他の大切な人にもいっしょに生きてね、といつも真摯であることでしょ。
人を制限したら、やっぱり自分をも制限することになる…。公の立場じゃないならば、やっぱり個の平等なところでみんなのユニークさに注目してほしいですね。確かにつっかかりとしてはどういう職業とか年齢とかっておもしろい情報です。でもそれに期待値を持ちすぎて人物鑑定を誤っては元も子もないです。
自分を好きになることっていうのは大事業です。そのあとにずっと好きで居続けられるように邁進することも大事業です。他人を見る目と同じように、自分を制限するのはやめましょ♪
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