10/13/2006 にアップした文章です。
自分を徹底的に分析することがどうも苦手な人はいるようです。どうしてなのか?自尊心(かなり間違った方向ではあっても)が傷つくから、のようです。私はこんな年齢になっても、いろいろな媒体を通して自己分析をするのが大好きです。生涯変わらぬ当然の習慣になると思われます。
そして考えるのが、他人の分析を他人のために進んでやってあげてしまう素人たちのこと・・・。そういう傾向が強い人々が親となると、子どもの人生はかなりドラマチックに積算して変わっていくことになります。それが、私が提言している「打倒!過干渉」の一歩です。友人関係でも恋人や夫婦関係でも同じことです。誰かを本人以外の人が分析し、本当に当たっているのかどうかあやしいもんです。怪しいことを認めないのが、パワーを持った人々で、そのパワーゲームを人々がやっているあいだは、犠牲者はどんどん出るのね・・・。
占いも天文学も心理学も、ほとんどの社会科学は統計学がベースになっていることはすでに書きました。私が占いを信じないのは、たとえば、姓名判断で自分がμの67%に入らない32%に属した場合、その大前提からオフしているところで、さらなる計画(今後の人生や身の振り方)を乗っけてもあまり意味が無いからです。ならば、姓名判断ではない、個別の自己分析をした挙句、姓名判断の統計のどこに自分が位置するのかわかったほうがいい。だけども、細木数子女史や他の占いの人々を見ていると、「必ずそうなの」が前提になっており、たいへんな無理を感じるのです。残りの32%強についてはどう補償するんだよ?と問い詰めたくなる気分です。
たとえば姓名判断でもおもしろいのは、結婚前と結婚後では運勢が変わるというもの。そんじゃー、男の人も苗字をバンバン変えて運命変えちゃえばいいじゃん・・・と簡単に思うのは私の第3者的オキラクさなのでしょう。私は戸籍上は西さんと結婚していることになっていますが(まるで迷惑みたいな書き方ですが、実際のところ結婚している事実に必要性を感じることはあまりないです。コレについては何度もすでに書いてきました)、使っている名前は生まれてからずっと同じです。父と母にもらった名前。で、私がどうもいかんのは、姓名判断のときにもこちらの名前を使うこと。あとから占いをする人に「それじゃー話が違うわよ。ものすごく結果は変わるわよ」と言われ、たいへんびっくりします。ふむ・・・。そうなのか・・・・。まぁ、姓名判断の姓だもんね・・・。でも、同じナマミが通称であれ、自分がおおだいらだと思っているのに、「違うのよ、あなたは西なのよ」という運命を語られても、あまり実感がないのが事実・・・。
あくまで占いは統計学だと思っている私の、悪いあがきなのかもしれないです(爆)。
そこで私が推奨するのは、徹底的な自己分析で、環境や事情が変われば反応する本体である自己も変わるので、果てしないわけです。占いより確実だと思うんだよなぁ・・・。33%近い誤差がないわけだから・・・。
才能も見極めないまま、投資金がものすごくかかる習い事や学校に進むなんてことを平然とする人々がいることにはかなり呆れます。わからないけど興味があるからやりたい、段階であれば、ぜひぜひ初心者級からやろうよ・・・。通信講座でも知り合いからの手ほどきでもいいじゃないか・・・。そして、それに失敗したことを自己分析に入れないのがそういう人々の常で、失敗した理由を自分のせいにするのはどうしても避けたいわけです。そりゃー、そのとき一時期だけのSelf-Esteem(自己尊敬心)はキープされるでしょうが、後々の蓄積については考えられないわけです。自分に最終的に誇りが持てるかどうか?ここがキーです。
ささやかな現時点の誇りのために、長きに渡るいっときの恥を拒絶する人々は多い。コレはなぜなのか?子どもの頃から他人と心の芯のほうをシェアしたことがなかったり、怒鳴りあったり泣きあったりしたことがないためなのかもしれません。西さんも実は、一方的に怒鳴られていたクチだったようですが、私と知り合ってからは、彼のほうも怒鳴ったりするようになり、泣くことは現在までもないものの、泣くことと同義の感動や魂や心のクレンリネスである排斥はしている模様。それが私と知り合う前からのスポーツ(ボートや登山やマラソンなどなど)で培われたとしたならば、相手を私にしたのはよかったことかもしれません。とりあえず、西さんと私は一時期、とてもふたりともが不安定で自分にまだ確固たる自信が持てなかった頃、第3者が見ればケンカばかりしている、と誤解されるようなコミュニケーション方法を取っていた時期がありました。討論の発展版なのですが、私は西さんが感情を前面に出すことについては奨励しており、私のほうもやりたくはないもののわざと自分の感情を前に出していたことがあります。私は生まれながらにしての情熱家であり、ハイパーであり、喜怒哀楽のメリハリが激しい人間なので、むしろ自分を「じゃじゃ馬馴らし」したかったのが実際です。それは10代からずっと続いてきており、ここのところそれほど激しい、秋の空のようなコロコロした感情の行き来は意識できません。持病のせいですが、薬なしでもここまで来れた自分に対して、ある一定の矜持があります。
が、西さんのためであれば、その鋭意努力を曲げることもできると思った時期があり、現在でも、起業の行方やその他、西さんの身体的疲労と心理的気力などがかみ合わないときには、しっかり感情を表に出すようにと、私でよければ使ってもらいます。
西さんはそのときにたいへん縮こまるのではありますが(たいてい私が論破してしまうので)、大切な時間を費やして学んだことについて、たいへん深く考えるようになりました。彼はそもそものところ「変わることを辞さない」という美徳があったのですが、ここのところさらに輪がかかってお見事です。正しいと自分が信じた物事に固執しすぎない。誰にとってのどんな立場の人にとっての正しさなのかをしっかり見極める力は、生涯向上させたほうがいい能力です。ナマミの人間には、自分が体験したことしか学べないステージで終わる場合がありますので、この正しさのアングルについて考え、その能力が高まれば高まるほど、たくさんの人生をひとつのナマミで生きたことと同義になるわけです。
さて、自己分析はこのようにして、自分の中の本質的な自分と、まだ花は開いていないが可能性がある自分、さらにどうしてもこれだけはできないということがある自分、ゆとりがあればこれにも向くし、あれもできると検討する自分などなど、本当にキリのないことなのです。中でも、「こういうふうに生まれちゃったんだから仕方ないよね」と思い込む人々は、後天的な環境の変化やその中に蠢いている環境要因や、登場する人々の持つ不可思議なエナジーについて、あまりわかっておらず、感謝の心も薄いはずです。物事を「好き嫌い」で簡単に解決することと似たようなものです。がゆえに、他人の意見が聞けず、特に耳に痛いことが聴けず、どんどん狭い世界へと閉じこもりながら生きていく羽目に陥っていることに気づけません。
私はここのところもかなり人様から苦情を持ち込まれており、そのせいでストレスも溜まっていた模様です。今晩は、母にお小遣いを1万。のちにまたまたパチンコで3万も勝ったので、さとみちゃんといっしょにスーパーに出かけて食材のすべてを私が支払いました。たまにはいいことをせねば、私のほうにもいいことなど巡ってくるはずもなく、感謝がなければ勝負運も下がる。商売もうまく行かないことになったりしたらたいへんです。ユニークでスペシャルな人々に囲まれているからこそ、私の人生はおもしろい。がゆえに、その違う人々の違う意見を聞ける自分でいられるために、徹底的な自己分析は欠かせないと思うのでした。
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