コラム

英語はどこまで勉強すればいいのか?という問題

簡単すぎます、この答え。

あなたの日本語での範囲を網羅すればおしまい!

日本語で理解できない内容について、英語では当然理解できません。文化的な乖離・側面・足し算引き算などの微調整・宗教観などなどがあったにせよ、日本語で「新しいものを寛容に受け容れる」ことができない場合、たとえそれが英語であっても、ドイツ語であっても、きっとできないままでおしまいです。

その後は、生活の中のさまざまなトピックや人々、場所や目の前にある出来事などに、どの程度英語で関わりたいのか?という熱意や必要性のみですよね。

Precious One English Schoolでは、「英語基礎コース」からこれらを想定しています。どこまで?というのを「英語で生活できるようにする」と設定して、基礎が入るまで、習慣化するまでを見届ける形にしています。

スクールや英会話に行き続けなければ英語力が下がる、などという不安感は取っ払ってください。なぜならば、英語を読み書きしたり、聴いたり話したりすることを日常に入れてしまうのですから、もう勉強はしなくていいのです。勉強している場合でもないです(笑)。

そうした意味では、英検やTOEICやその他の英語検定などの最高ターゲットの先のほうが、ずっとずっと長いこと、複雑なことはわかりますよね?今の自分の知性のまま甘んじていくのか、変わりゆく世界の情勢を読み取りたいのか、もっと才能を発掘したいのか、さまざまな人々と出遭い、話をしっかり聴いて、あらゆる考え方を咀嚼したあと自分の考えがコレ!という結論を出したいのか?などなど、自分を確かめながら、心理レッスンを加えながら、自分のことをもっと深く知り、生きているあいだずっと英語を使っていくように仕向けていきます。

そもそも、子どもの頃から座学はしなかったワタクシですが、右肩上がりで賢くはなってきたという自負はあります。本当に勉学し始めたのは、航空専門学校でもなく、大学に30歳で戻ったときですね。座学が多かったわけではなく、考えをまとめて書き留めたり、理解したことを文字化した、という作業だったように思います。しかも莫大な量をこなした感はなく、莫大な量の中から抜粋する・グループ化する・結論を簡素に獲得する、という作業だったのです。

それって、生活とまんま同じじゃーないですか?

スーパーに行っても、たくさんある物品の中から、自分の生活にマッチしたものをお値段的にも、賞味期間を見て、献立の内容や栄養価を考えて、選ぶという・・・。けっこうたいへんなことを日々やっているはずなのに、そんなに負荷だと思わない人もいるし、私のように「買い物大嫌い!」と言い続けるヒトもいる(笑)。

ただ単に対象物が天文学・哲学・政治学などと名前が高等になっているだけで、勉学と生活はあまり差などないと、私個人は捉えています。やることはさほど変わりがなく、対象物によってアレンジメントが違ったり、動作の有効性が違ったり、といった具合です。

なのに、私はまだ帳簿つけや広告など、苦手な分野がたくさんあり、それはひとえに自分のIdentityと深く関連しているのだろうな、という疑いといつも戦っているわけです。英語の勉強を続けているという感覚はなく、英語でしか顕されていないものは英語で、というだけの話です。

ヒトとして、前進すること・進化することを諦めないでいけば、「どこまで」というのは、「死ぬまで」何かは学び続けると思いますが、純粋に英語だけを勉強するなんてナンセンスだと思いますよ。うん・・・。

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