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見ているものと事実の差

これが何から来るのか?というのは明らかです。自分が捉えている世界と、ありのままの世界に差があるのは、自分というカメラ・レンズ・ブラックボックス・個体に感情があるからです。世界のあれこれは、これまで小さい頃からずっとさまざまな姿を見せてきたはずで、同級生のNちゃんやGちゃんには優しかったのに、同じことをした私にはさほど優しくもなかった、とか、同じ家で同じごはんを食べて同じ両親に育てられて、いっしょにTVを見ていても、兄や姉や弟や妹と私は違うように感じる、など、たくさんの誤差を生んできたものがあります。それが、簡単に言うと、「主観の差」です。

主観:

①対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。 → 主体

②自分ひとりだけの考え。 「 -だけで言うのは困る」 「それは君の-だ」

▽⇔ 客観 〔西周にしあまね訳「心理学」(1878年)に英語 subject の訳語として載る〕

客観力を備えている人は強い。けれども、この誤差を認めることはけっこうつらい作業です。特に10代からこっち、なかなか難しくなってきて、難しいとあきらめてしまっている人もたくさんいます。

私というエネルギー体は、かなり健康で、寝て食べてしまえば相当復活し、飽きることなく、繰り返しが苦ではなく、観察するためには動的でありたい自分を抑え込むこともでき、ひとりが大好きで、差をつけることやつけないことに、考えよりは行動や感性、感情を優先してきたところがあります。主観のカタマリでしたね(笑)。そして、10代になり軋轢がたくさん生まれ、その摩擦熱はつらくて仕方なく、もっとひとりになっていき、バイトをする頃には、いっそひとりのほうがずっといい、と思うようになったり、と、紆余曲折を経ながらも、主観で生きていると思い込んでいたのです。

ところが!けっこう客観性も身についていたのですねぇ、知らないあいだに。

客観:①主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。世界。かっかん。

②特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。客体。かっかん。

▽⇔ 主観 〔漢籍では「立派な容貌、外観」の意。「哲学字彙」(1881年)に英語 object の訳語として載る。明治期には「かっかん」と読むのが一般的〕

自分の感情や考え方や感じ方のリズムを横に置いておいて、物事を眺める力が知らないあいだについていた、というのはラッキー以外のナニモノでもないです。なぜその客観が身に着いたのだろう?と考えると、けっこう深いです(笑)。

ヒトさまに反対されたり、揶揄されたり、怒られたりする → 自分の正しさについてどうしても証明したくなり、自分を正当化することに夢中になる → トライしてみても、やはり主観中心でしか物事を見ておらず、行動がはちゃめちゃ → ちきしょー!と負けず嫌いが発動し、さらに追求していく → 再トライ、あるいは再々トライなどで、成功するととっても気をよくする

というのが、何百回か数千数百回くらい存在したと思うんですよ。小さいことで言えば、歯磨き粉の定位置決定とかね(笑)。

そうなると、トライの回数が少なくなったり、自分の正しさや認知そのものが客観と一体化する部分すら出てくるようになる(笑)。きゃぁ!おもしろい、という構図ですね。平均とか当たり前とか習慣ではなくて、本当の意味での客観=事実という世界、になってくると、なんだか主観を通していくよりは、主観を大切にしつつ、客観と共存していったり、客観との距離について考えてみるほうがおもしろい。そしてそれがなぜ生まれるのか?をじっくり考えてみたほうがおもしろい。

少なくとも、誰かに押し付けられたということはなく、自分で考えてみたり、見て体験してみたり、これでもか、とトライして失敗してまた成功のためにトライしたり、というのは、何においても、誰においても必然的にいいことなのだ!とずっと考えてきました。

見ているものと世界にどの程度開きがあるか、あなたは考えてみたことがありますか?

実は、本日、母が認知症で決定的に徘徊している夢を不吉にも見てしまいました。(・・;) 夢だと見ている最中にわかったのは、私が夢の中に出て蒼い顔をしていたので。リアルタイムだったら私の全身は見えませんからね♬

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