1999年分
詭弁:1.道理にあわぬ弁論。理を非に言いまげる弁論。こじつけの議論。2.判断や推測に関する論理的反省に基づいて生ずる、外見上はもっともらしい推論で、形式上や内容上の虚偽を含み、多くの場合相手をあざむいたり、困らせることになる。
MBに書いていたときには(最近ちょろっとまた書いて挫折感を味わったのですが)、天秤座のせいなのか、それともいつでもフェア(公正)でいたいと思うせいか、「論理」と「心」の両面を取り入れたことをバランスよく書きたいな、と思うばかりに、だらだらだらだらと長い文章になってしまい、挙げ句の果てには「詭弁」だと言われる羽目に陥っていました。
そりゃねぇ、心の問題なんか人の心の数だけ同じ刺激にも厳密に言えば違いはあるし、いくら分類しようったってバラエティがあるのは当然で、なるべくたくさんの人にフェアでいたい、寛大でいたい、伝わるようにしたい、と思うとやっぱりぐちゃぐちゃになります。そこで「あなたの日本語はおかしい」「読みづらい」「わかりにくい」などなどと言われ、しまいには「哲学的すぎる」「長さが恐い」「抽象的すぎる」「ごちゃごちゃしていて読む気になれない」と言われてしまいます(涙)。
他人を疲れさせるのが動機や目的で文章を書いているわけではないのですが、言いたいことが言えた試しがない私は、どうしてもそうなってしまいます。改めようと思って短く、俳句のように、簡素に、とすると「暗号みたいでわからない」「内輪でないとわからないことなのか?」「自己満足だけで書いているのか?読み手のことは考えないのか?」ということになり、短くても長くてもやっぱり文句は出るわけです。
そこでやはり仮にも人の子である私はまた悩むわけですね。他人に嫌われることや、他人に蔑まされることについてはどうでもいいのです。私は万民に好かれたいとも思わないし、嫌いだっていう人に無理して好きになってもらいたいとも思えないし、好きな人だってこれからの私次第でいつ嫌いになられるかもわからないし、だいたいその好き嫌いっていうのがよくわからないかもしれないです。私という人間のOOが好き、XXが嫌いならば納得できますが、私自身が私のすべてを知らないっつーのに、他人様に簡単に私を理解把握されたらたいへん困ります。だからこれは別問題です。
そういう動機で悩むのではなく、かなり大勢の他人に迷惑をかけやたら理由もないのに不愉快にした~この場合は雑文を書いて~ということで悩むわけですね。もっと改善の余地があったんじゃないか?送信ボタンを押す前にちゃんとまんべんなく推敲しなおしてもないじゃん?とかね。ああ、こういう書き方のほうがわかりやすかったんでないか?とか、この言葉は適切じゃなかったかも?とか。なぞがなぞを呼んで、どんどん自分がこんがらがって、それに他人を巻き込んだことにどうも反省しまくってしまい、この悪循環に一度落ち込むと、どんどんどんどん地の底にくるくると螺旋階段を転がされていきます。
書くことが好きなのか?好きですね。私は活字にした自分の考えを眺めて整理したり、枝葉をつけたり、削ぐ行為が大好きです。それは誰かに見てもらいたいということではないです。理解してもらいたいという熱意もそうないです。してもらったらラッキー、グリコのおまけって感じです。賛成しなくても理解はできるはずなんだけど、それができないならばやっぱりどこがわからないのか聞いてくれたらレスできるのでいいな、と。意見が違っても、私は私のオリジナルな意見があってよかった、彼女や彼にもあってよかったってだけです。「教えてくだしゃーい!大せんせーい!」という必要以上な媚びはないし、「あんたこんなことも知らないの?教えてあげるわよ」なんてこともないし、ただ純粋に私がこう考えるのはこういう経路であったから、だからついでに理由やそう考えた道筋までも書きたいと願ってしまいます。
だからどうも長くなる…。けれども、端折ると偉そうになるのか、それとも長々書くと偉そうなのか、それはまだなぞです…。
私はMBという媒体がとても好きでした。自分が選ばれ選んだ人ではなく、まったくどこの人ともわからない人のいろいろなことに対する意見が聞けたからです。日本の文化から離れてしまった不安もあったし、日本語そのものにも不安があったので、読むことはとても楽しかったです。どうして返信せねばならぬかというと、その瀬戸際には私なりの判断基準がありました。
もちろんMBは誰でも見ていいところなのだけれども、ROM (Read Only Mode)に徹しているのは、参加しているんだけど「影」のような気持ちで自分のお尻がもぞもぞしてしまい、画面に向かって文句垂れたり、「うんうんうん」とうなずいているのもなぁと少し自分がよしとしている平等から外れているような気持ちになったりして、自分で自分を追い込むようなどうも平穏でない気持ちになりました。最初はチャットだけに参加していたのですが、「どうして書かないの?」と言われて、どうもうまい答えが見つからないな、と。
「日本語直すなら書かなくちゃだめじゃん?」と思い、やりはじめたらレスがついた♪ああ、画面の向こうで誰かと繋がってるんだなぁって思うとわけもわからず、胸が暖かになりました。そうしてMBでレスをつけてくれた人に感謝しつつ、またレスをつけていく。知り合いが増える。チャットでも話している人が投稿している、それにもレスをつける、またレスがつく、それでまたレスをつける…。果てしない作業の始まりでした。2年前の私の投稿はまるっきり英語で考えたことを日本語に訳していたので、見る人が見ればものすごく滑稽です。でも自分でわかるのですね。書けば書くほどちゃんと日本語が取り戻っていることを。きちんと読めないと書けないし。そして私は学校の宿題やテスト勉強が許す範囲で没頭しました。私には家事の義務はないもんで…(汗)。
でもなぜかやっぱり角は立つものです。そりゃそうです。人間がこれだけの数集まっているわけですから。論議が多くなります。私は個人的にアメリカ生活12年で他人と違う意見でも論議するのまったく抵抗感ないです。「へぇ、そうかぁ。そういう考え方ねぇ」って感じです。レスに「あれれ?これは私とも違うし、ちと道理も感情的にも違うじょ」と思うとまたそれを書く、という感じです。ただ追いつめられちゃうような誹謗中傷だと、ちょいと攻撃的だったこともありました。意見ではなくて、私の断片的思考ではなくて、人間性を否定するものにはちょっと抵抗ありました。
そして私がいかに曲った人間なのか、どう詭弁を使っているのか、をまた詭弁で返されているかのような…。んん、いいんですよ、考え方が間違っているっていうの、いくらでもご指摘いただくのは。それで私が不愉快になることはまずないです。「他人をコントロールするような態度」がものすごくだめです。私は相談系の投稿にはほぼレスはつけないように意識していました。ただ多数決で投稿者が悪いというような追いつめられたような、どうも雰囲気が悪いようなのには、ひとりだけ違う意見を書いたりしました。それは正義感とかいじめ防止とかではなくて、心から「ん?いいんじゃない?浮気。本人がそこまで決意してるなら」とか「どうしてこの浮気はだめだっていう理由が、結婚してるからってだけなの?結婚してなかったらいいわけ?子どもがいなければいいわけ?」だったりして、別にかっこつけるために無理矢理自分の意志を捻じ曲げてまでレスつけてたわけじゃないですから。
論議っていうのはやっぱり勝ち負けとかやっつけようとかでやるわけじゃないんです。結論なんか出るわけがないし、それは読む人の判断でいいわけです。私がもしも読む人の判断を曇らせるような、Cult(組織性の薄い伝統的宗教ではない教団)チックなことを目指していたならば、それはやっぱりやっつけられるべきでしょうが、そんなことやろうとも思えないし、やることがリアルでありすぎだって…←掃除しろ。別段、私は誰かを説得したり、しあわせにしたり、啓蒙することが目的じゃないんですって。だから他人を説得するための「詭弁」なんか必要ともしないです。それは読む人に対して失礼です。みんな自分の考え方があり、いろいろな読み物でいい悪い、取り込み棄てる、などの作業をして、判断は自分でしているはず。
ただ人間は弱い生き物なので、その場の雰囲気ってもんに流されちゃうことがままあります。喧嘩っぽいMBが増えると普段は自分から言わなかった人でも野次馬的に書き込みをしたり、ついでにこれも言っちゃえ!とかあります。それを修正しないと、集団心理っていうのがマイナスに出るとたいへんなことになります。そして、私は私が尖がってしまっている状態にうんざりしました。ネットに繋ぐことが不愉快になるくらい、でもレスがついていたらそれに応じないと、となぜかやたら律義でした。
いちばん自然な参加の仕方はきっと、私は私のために、他人の意見をたくさん聞かせてもらっているので、私の意見を披露してお返しレスでReciprocity(相互性)を守り、興味ある疑問があったらそれを新規投稿し、どういう反応があるか自分の考えをシェイプしているだけなので、詭弁は要らないとあっけらかんとしていることだったんでしょう。「論破することが楽しいんでしょ?」と言われて涼しい顔できなかった私がナイーブだったんでしょう。「私はきくみに同じ意見になれと強要されているような気持ちになる」と言われても気に留めないで、そうじゃないよぉ、と説明することも骨惜しみしていればよかったのかもしれません。でもできませんでしたから。
私が書くことによって、いくら書いても書いても、どうも額面通りに受け取ってもらえなかったり、どうもその文章が長すぎるということでヒトサマのアタマと心を惑わせてしまい、何だか書く自分に疲れてしまったんですね。他人をコントロールするなんて私がいちばん嫌いなことで、それを「もしも私が本当にしていたら」と思うと寝汗をかきました。現在、詭弁の渦をもう見ないようにと、MBは見ていません。「これ、おもしろいよ、読んで」と言われたものだけ読みますが、今はそれもなるべくしないようにしています。すんごい消耗していた頃の自分が思い出され、そういう自分は好きではなかったです。
HPはいいです。好きなことが好きなように書けて♪←でも思慮は私なりにあるつもりなので、迷惑かけないように最大限努力しております。今日まで不思議だったのは、まだ一度も文句メールが来ていないこと、BBSにも文句投稿が登場しないことです。HPという性格上、このスペースは私のものだとみなした考え方をしている人が多いのかもしれません。でも不愉快だったらちゃんと言ってね。私はいくらでも改良型おおだいらきくみになりたいので、そのチャンスを与えてくれる人には感謝します。
だめだよぉ、私の言うこと全部信用しちゃ☆ただの刺激だからねぇ!
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最近は書くことにおいて、ここまで悶絶することはなくなりましたが、相変わらず産みの苦しみはあります。テキストに関しては、考えぬいたけれども、New Improved me!になったおかげで、たくさん付け足すことがあるよ、というのが当然である、と受け止めてからは、かなりラクになってきました。とはいえ、昔の私はけっこうくどいなぁ(笑)。笑えます・・・くく。
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