08/26/2008にアップした文章です。
日曜日、私が知らなかった情報を聞いたので、ちょっとだけびっくりしたあと、やっぱりなぁと呆れたので、少し反応が遅くなってしまいました。そもそも、日本の社会というのは、身障者にまったく優しくない造りになっており、そのせいなのか、その上なのか、健常者からの理解も低い。そして、私が聞いたニュースとは、一般企業への身障者雇用率の義務化を守っていないという現状。うひー、義務化されたのにやってないのかよ!という、この「企業理念をアピールする風潮」の中、口先三寸を具現化している大企業の体質に、さらに落胆させられたのでした。もちろん、全員を対象に文句をたれているわけではなく、やっていない企業に関してですので、誤解なきよう・・・。
私が帰国してからまだ2年ほどなのに、すべてを把握しているかのような口ぶりで、ある会社に勤める彼は、「うちはあの、ほれ、身障者雇用枠で、ほうれん草を作っているわけよ」と言われたもんで、「ん?あの身障者雇用枠というのは?」と思ってしまったわけです。
歴史的な障害者雇用の推移はこちらの通り>
http://www.jeed.or.jp/disability/employer/employer01.html 身障者と高齢者のための独立支援団体のHP。これによると、300人以上の従業員を持つ企業は、1.8%の率で、障害者を雇用しなければならないことが義務付けられており、それに従わない場合、罰金を1人につき月額5万円、年間で60万払わねばならぬ、ということ。
ところが、JAL(日本航空)が2000年に訴えられたわけです。1.8%の規定を大きく下回り、日本の平均であった1.4%ほどをも下回り、「罰金だけ払っておけばいいと思ってるんだろ!」と指摘されてしまったわけですね。そして、和解までに達したということらしいです>私はその頃日本にいないので、本当にまったく把握していないのですが・・・。
私がその頃住んでいたシリコンバレーは、カリフォルニアで賃金の高さで評判の土地で、地価ですら、マンハッタン島に続くほどに高く、物価もソコソコ高かったのではありますが、環境としてはよかった・・・。教室や会社に犬を連れていってもいいことにもびっくりさせられたり、それが身障者のための介護犬でないことで二度びっくりしたり、という日々が続いていったのです。
街中には、2つトイレブースがあったら、1つは必ず車椅子が入れるようになっており、あちこちに段差がなく、身障者用の駐車場が建物への最短距離の場所にたくさんあり、ステッカーをつけている車も山ほどあり、スーパーや学校でも車椅子だけではなく、さまざまな身障者がフツーに生活しており、誰かの介護なしでひとりで行動している人も相当な数がいて、最初の1年くらいはそわそわしたものです。大丈夫なのかなぁと。大丈夫というのは、私に迷惑がかかるなどという観点ではなく、「もしものことがないのかしら・・・」ということでした。ところが、養護学校や職業訓練なども、その気がある人々にはかなり拓けており、実際に労働している人々も多く、私ごときが心配するようなことではなかったのでした。まぁ、それを知るまでに、1年くらいは軽くかかってしまったのだけれども・・・。
日本に戻って来て、違和感を強く感じるのは、やはり身障者がまったく外を歩いているところを見ないことです。たまに見つけられたとしても、ひとりでいることはほぼなく、誰か介護者がついているか、小団体で動いています。他人様への迷惑というスタンダードが効いているのでしょうが、本当に彼らが何かをしたときに迷惑なのだろうか?と、私などは思えるのです。
私が、アメリカの学校やスーパーやモールなどで、身障者をさりげなく手助けできるようになるのは、それまた1年後くらいのことなのですが、ナニが1年も掛かるハードルになっていたのか?と問われると、一重に私がひとりで勝手に構えていたから、という理由だけなのです。エスカレーターにしろ、入り口のドアにしろ、健常者も身障者も目的はひとつで、スムーズに移動できればいいだけのことであり、特に大きな違いなどはないのでした。私が椎間板を2枚失い、ウォーカーを使って歩く日々が2ヶ月くらい続いたのですが、そのときも人々はうんと優しかった。「自分だったらこうする」という気持ちだけで充分だったのです。
職場にしても同じことで、能力や性格の差など、今にしたって健常者同士のあいだで、細かく言えば山ほどあるわけです。なのに、身障者が入ると能率が下がる云々と思ってしまうのはなぜなのか?勝手な先入観以外のナニモノでもなく・・・。
知的障がい者の場合は就業場とその仕事内容を設定する段階で、少し難しい場面があるかもしれません。が、私が見ていても、IQ70ギリギリ(普通クラスと養護クラスの差はこのラインなのがアメリカ)の人々よりも、何も考えていない健常者というのはかなりたくさんいます。考える能力があるのに使っていない、というやつです。なので、特に大きな問題などは生まれないと思えるのです。小さい問題であれば、健常者の集まりの職場でも、ボタンが掛け違えまくっており、日々みんなで「ストレス!ストレス!」と騒いでいるわけではないですか・・・。
私の最寄り駅である調布も、特急が停車する駅で、京王相模線へと岐路に立っている主要駅なのに、エレベーターがありません。車椅子の方々は、そのレールの補助器具をスタンバイするためだけに5分から10分は待たされる羽目になっています。エレベーターがあれば、他人に依存している意識も芽生えず済み、時間もうんと短縮できるのに、です。そして、今やっと着工しているのですが、一体いつできあがるのやら・・・。高架になるので、その一貫でつくり始めただけで、何も身障者のためではないところが、どうも腹立たしいというか・・・。
実は私も障害者手帳がもらえる立場にいます。もらえるものはもらっておけ、という方々がかなり居る中、私はもらうことを拒否しています。投薬をする意志がないことなど、お上に納得していただけない依怙地さもあることですし、税金は他のことにもっと有効に使ったほうがいいですから。
私ですら、就業していられるのだから、きっとやる気になればみんなできるはずで、健常者の方々は、おそらく身障者のポテンシャルに、まったく目を向けておられないのではないかと思えるのです。そのための映画Rainmanには泣けたはず。その理由は、主人公のRaymondが哀れだったり、わかりあいたい弟を深く知ることがないことへの絶望や憐憫ではなく、ありのままの姿をしっかり受け止める覚悟がある人間なのかどうか?を、自分について確かめられるからだと思えてならぬのです。どこかで誰かに積極的ではなくとも同情しているのは、少し違うのかもしれません。
自分だって、健常なだけであり、実はどこかが驚くほど水準から見ると曲がっていることだってあるかもしれない。そう思えば、ひとつの側面でしかないものに、大仰に目くじらを立てたり、偏見や先入観を持つことなどないのです。罰金さえ払ってりゃいいんだろ、の大もうけしている会社には、ぜひぜひ腹を立ててみてください(笑)。
コメントを投稿するにはログインしてください。