07/19/2006 にアップした文章です
マンションで出会う人々と言えば、エレベーターの中だけで、3階の廊下で人とすれ違ったことは、こののべ50日ほどのステイの中でたったの1回。エントランスとエレベーターでは、1日に1回以下の割合で人に会います。少ないよね・・・・。
私は近所づきあいに文句を垂れながら育ったものの、おじちゃんやおばちゃん、近所の子どもたちと触れ合うのは好きです。まったく嫌いではありません。うっとうしいとも思わないし、むしろお宝だと思っています。なので、USに住んでいても近所づきあいはしていました。コンドミニアムに移ってからは、自分が出かけたり戻ってきたり、あるいは誰かをわざわざ訪ねていく、という手間隙が掛かりましたが、一軒やのときにはごみ出しや郵便ポストに出るだけで、誰かしらが見ていて話しかけてくれたものです。さらに、USでは公園にウォーキングに出ても、スーパーに出ても、HelloやHow are you doing?などは定番として、すれ違うときなどに、「敵じゃないんだよ。友好的なんだよ」というサインのように当たり前に頻繁に使われている挨拶です。以前のエッセイ「知らない人に話しかけられる」でも書きましたが、私は見知らぬ人に声を掛けられやすいのです。特にスーパーでは役に立つようで、棚から荷物を取ってあげたり、商品の注意書きを読んであげたり、自分が使ったことのあるものだと感想を述べてみたりと、いろいろ頼まれたものです。日本人から見ると「キツい顔」に見えるようですが、欧米人や長年USの土に住んだ人々にとっては、私はとても害のない友好的なやつなんだろうな・・・。
私はいわゆる長屋のようになっている状態の木造の一軒やが連なる文化住宅のようなところで、生まれ育ちました。そこではアメリカに出て行くまで住むことになりました。今現在、その場所にはアパートが建てられており、私が遊んだ植木屋さん2つやスーパーや家々の面影はすっかり変わってしまいました。「故郷が消えた」という気持ちになっています。駄菓子やさんもおばちゃんが老齢になり店を閉めてしまい、交番も移転し、スーパーはなくなり、家々も壊されて建った新しいものはまったく見知らぬ顔をしており、畑だったところは駐車場や道路や新しい建売が並んでいます。家の目前にあった富士重工の社宅はまだ建ってはいますが、入居者もまばらで、その中央にある公園もブランコと砂場だけのみすぼらしいものです。トレードマークのようにあった大きなポプラの木2本もなくなり、私が泥棒と警官や天国地獄やろくめしなどをしたり、夏休みにはラジオ体操をした空間は、どこかに飲み込まれてしまったようです。
幼い頃は、私がそのブランコの上で大声で歌をメドレーで歌っていると、どこからともなく、友だちだけではなくおばちゃんがいっしょに歌い始めたり、「パンツ丸見えだよっ!」と怒られたりしたものですが、カエルもカラスもあまり鳴くことはなく、夕餉の支度の匂いももうあまりしないようでした。舗装されていなかった道はアスファルトになり、私のアルバムの中にすべてが押し込まれました。
深大寺ストアと名のついたスーパーもどきは、雑貨や・お菓子や・肉や・魚や・乾物や・八百屋がシンプルに並んでいるただの雑居商店だったのですが、並んだ長屋からそのストアまでは子どもの足で歩いてもわずか3分。「初めてのおつかい」は特に私にとって難しいことでもなく、失敗してもまた行き来できるし、どうってことのない仕事でした。ええ、我が家では仕事だったのです。お手伝いではなく、メシを食わせてもらっているやつらは全員働かねばならなかったわけです。なので、買い物は子どもができるイチバン簡単な仕事の部類のひとつだったのです。掃除と買い物、布団上げに雨戸の開け閉め、洗濯物たたみなど、小さい頃からクルクルと働いていたのです。でないとごはんがおなか一杯食べられない(笑)。
そんなわけで、近所のみなさまに露出されており、1日に1回か2日に1回の割合以上でそこには買い物に行くわけです。手前には中華料理店が細々と営まれており、なおみちゃんのお母さんが美容室をやっていました。なぜあそこにストア群があり、食べ物やさんと美容室があったのか、今でもよく真相はよくわからないのですが、富士重工の社宅が満員状態で入ると、驚くことに400世帯ほどが入ります。そのせいだったのでしょう。牛乳配達をしていたおじさんはとても商売っ気が強く、中華料理や以外にいろいろなことに手を出していたようです。おもしろいおじさんだったな・・・。
困ってしまうのは、その6つのストアや美容院と中華やさんを使わなければこの地は狭くてしょうがないこと。途中、シヅオカヤというスーパーが自転車で行ける距離10分ほどのところにできたのですが、そこを使うことは深大寺ストアの滅亡を意味していました。バス通りまで出るとダルマやというスーパーもありましたが、規模的には同様だったので、近い深大寺ストアを使う人は多かったのです。6軒すべての人々に名前も顔もどこの子かも把握され、今晩のおかずまで言い当てられ、お財布の中身まで想像され、私は無事に育っていきました。
対人恐怖症だった母は、家から出ることなく、家の中で内職を始めますが、それは私が中学を卒業する頃ました。私が小学校1年にあがるときに祖母が死んだのですが、それを機に母は飲み始め、数年後からスナック通いをし始めるのですが、社会に出て働くことをするには、まだあと9年近くを費やすのです。それについても近所ではいろいろ言われることになります。離婚をし、女手ひとつで子どもを育てていたOさんを友だちにした彼女は、歩いて1分ほどにある家に1日に何度も足繁く通います。内職の急ぎがない限りは、そこが第二の家みたいなものでした。Oさんの家の隣には、三鷹でケンネルを経営している一家が住んでおり、珍しい動物がいつもいると評判で、そこの3人姉妹のお姉さんたちと遊ぶのは楽しかった。初めてドーベルマンを見たり、隼を見たりしたのもそこでした。
私が高校に入り、バイクに乗ったり、男の子に家まで送ってもらうようになってから、我が家の近所の評判は途端に悪くなりました(笑)。母の飲み癖もそれなりに悪かったのでしょうが、主婦同士には憐憫があったのかもしれません。私が乗ったバイクは原付ではなく、250ccだったせいなのでしょうか。深夜に及ぶバイトができるようになってからは、さらに評判は下がります。が、小さい頃とまったく変わらぬ態度で挨拶をし、わざわざ会いに出たりお茶に誘うことはないにしろ、近所づきあいは続いていきました。
深大寺ストアは、私が高校生になったときには最後のお菓子やさんがお店を閉めました。雑貨や(タバコや文具などを売っていた)のおばさんはガンで亡くなりました。八百屋さんは歩ける距離に住んでおり、3人の男の子の兄弟はすべて立派に育ち、ひとりは東大に入りました。お肉やさんの5人姉妹は高校には3人しか行きませんでした。上のふたりは中学卒業後すぐに働いたのです。早くに結婚し、深大寺を去らなかった美容院のおばさんの娘さん。考えると本当に小さな地域社会でした。
そこでの濃厚な監視機能を潜り抜けてきた私は、今もマンションの下にある中華やさんにパチンコ帰りなどを鋭くチェックされていますが、まったくOK(笑)。中華やさんは、自治体の副理事長さんなんだよね・・・。パチンコやさんでも近所づきあいは広がっており、コーヒーやお茶をもらって、ご商売をなさっている人たちのところには、ごはんを食べに出かけたりしています。調布といえども、駅前を歩く人々の数はとても多い。みんなと知り合いになることなどは無理です。ファミリーマートだけだってすごい数だもん・・・・。なつかしい締め付けられていたくらいの監視機能はもう今はなし・・・。なんだか寂しいような気もします。
早いところいい地域に一軒やを購入し、締め付けのきつい監視機能があるご近所さんを得たいものです♪
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