まだまだ私のMobilityが狭かった頃、富士重工(スバル)の社宅の前の文化住宅の並びの借家に住んでいた私には、遊び場はけっこう限られていたところから始まり、その限られたところにあるものを毎日発掘してみたり、同じものが違って見えたり、などなど、飽きもしない日々が続きました。少しずつ世界が広がっていき、なんと!24歳半で渡米することになるなんてことは、当時は考えもしなかったのですが、夕焼けもカラスも里芋の葉っぱも、おたまじゃくしも落とし穴も植木屋さんのたくさんの樹々も、本当にいろいろなことを私に教えてくれました。
最初のテリトリーは、猫の額ほどの狭い庭なのですが、写真にもいくばくか残っていて、乗用車がようやく2台駐車できる程度の庭は、初めの頃はちゃんと門扉があったのです。昭和なので、塵箱が各家の前に設置されており、身長が低かった私は、投げ入れることしかできないばかりか、きちんと入れられなかったときに入れなおしをするために前方の蓋?を引き上げる力すらなかったのです。それでも、塵だしはけっこう楽しかった。今のようにプラスチック製品も数えるほどしかなかったこともあり、きちんと蓋があるものにきっちり開閉できるかどうか、それなりの苦心をしていた気がする(笑)。雨風でどんどん老朽化し、いつ撤去になったのか?という記憶がないんだけど、小学校時代のいつか、だったんだろうなぁ。
当時私が住み暮らしていた場所は、神代植物公園から大人の足で4分くらいで、子どもの足だと7分くらいだったでしょうか。今はもう記憶を呼び起こすヒントになるものは、富士重工の社宅とそこに設置されている公園だけ。アパートが並び立ち、立派な一軒家が整然と建ち、土塊に触れる場所は、その公園のお砂場と、植木屋さんの敷地内だけです。
12年弱前に戻ってきたときに一度、7年くらい前に一度、通ってみたのですが、なんだか何も残っていないような気がして、少し切なかった。形あるものは変わるという必然については、身に染みて知っているはずだというのに、どうしても何かを探したかったんでしょうね。変わらない何かを。
実際は、電信柱すら変わってしまっていて(笑)、古くから居住していた方々の家も改築していたりして、記憶の中にあるものは、わずかしかなかったのです。
あの富士重工の公園で、たくさんの遊びが展開されました。だるまさんが転んだ・砂遊び・天国地獄・泥棒と警官・ロクメシ・丸十・ラジオ体操・ブランコ・ダッシュ・キャッチボールの練習等々、山ほど繰り返し、合間にトイレに自宅に戻り(ダッシュして12秒くらいの距離)、止まらない汗をぬぐいながら、水まで外の水道から飲み、またもや遊びに戻る、というのを常とし、みんなが習い事で忙しくなるまでは、本当に楽しかった・・・。
アスファルトが近所にもできて、壁打ちやバレーボール(アタックNo.1 が流行ったのだった)、馬乗りや馬跳びを開発したのも楽しかった。ゴム段や縄跳びに勤しむようになり、どんどん上手になっていくのが自分でもわかるし、他の子たちと競争して楽しかった。
そして、植木屋さんまでテリトリーを延ばして、自分の樹を勝手に決める(笑)。秘密基地を作り始め、お宝を隠しておく場所を工夫し、樹から落ちないようにして空を眺め、景色を満喫し、この空の向こうやその空の向こうの下にいろいろな違ったものがあることに想いを馳せたものです。
季節によっては、虫を追いかけたり、収穫物(栗・あけび・のびるなど)を取り過ぎないようにと教わりながら家に持ち帰ったり、動物に出遭うと内緒で飼い始めたり、Actions were all packed there!な常態でした。
あまり遊びに連れていってもらえなかったし、習い事もできなかったので、図書館に行けるようになったり、玉川探検に行ったりしても、やはりこの家の近所の遊び場は永遠に最高だったんだなぁと。
私の純真さや創意工夫を作ってくれたあの場に、今も地面にキスしたいほど感謝しています。
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