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郷土愛の正体とは?

どんな愛にも、「適度な」「正常範囲」というものがあります。親子であっても、恋人であっても、ペットであっても、です。過ぎたもの、多くても少なくても、やはりこれは少し違う。持っているだけならばいいのですが、それが言動に反映されてしまうと、さまざまなところで問題や摩擦が起きます。愛の対象者に負担に感じられてしまったり、その愛と違うものを尊いと思う人とはうまくやっていけないようになります。

愛の大きく過ぎたものは「執着」。適度なところが「愛着」。足りないほどの場合は「孤独・孤立:いわゆるEmotional QuotientやSociability Quotientが足りない状態」と表現されます。

対象物が郷土の場合・・・どうなると思いますか?ヒトではないからいいとなるでしょうか?そうは問屋が卸さない!んですよねぇ・・・。なぜならば、ヒトはみな自分の故郷にはそれなりに健常程度・適度な思い入れがあるので、それを真向否定されたり、他の土地のほうがよりすごい!とプレゼンされると、やたらと不愉快になるのです。その人間関係は、この郷土愛の目盛により、ヒビが入っている状態になってしまいます。

さらに、執着ほどの愛がある場合には、食べ物やらスポーツ、著名人の出身地など、あれこれと日々話題に上ることについて、またヒビがピキーッと入っていきます。そのヒビの長さや太さが、他の不和と重なっていくと、「全体的な思考・嗜好・志向」の差となり、肌で感じるほどになっていき、「このヒトとはうまくやっていけない・・・」というほどになることも多いのです。

さらに、郷土愛というのは、

  • 血縁関係者がたくさんいる可能性が高い
  • 小さい頃の想い出は実際がよくも悪くも、よいものとして改竄されて残っている場合が多い
  • 自分の出自の場、その場が持つ文化全体をよいものだと思いたい

という、まぁ、かくも厄介なものなのです。

もっと言えば、親戚や親御さんなどや、今も連絡を取っている友人などがいれば、その影響力は増加の一方です。

なぜ自分に関する根っこのような扱いにしてしまい、この愛に純度を求め、最高値をもらいたがるようになるのか?

はじめに言っておくと私は日本・東京・調布・深大寺への思い入れは、平均よりざっと低いです。とはいえ、無関心な「孤独・孤立・EQやSQの欠如」ほどではなく、適度な閾(幅)の最低ラインくらいでしょうか?神代植物公園や深大寺、調布駅など、褒めたい気持ちはありますが、他のヒトもみんな自分の住んでいるところや生まれ育ったところはそう思うよね?という汲み取り状態です。

自分自身が生まれ育ってきた中で、囲まれてきた環境は「是」「善」「良」であるとしたほうが、自分そのものが同じように評価されやすいからです。つまり、ヒトというのは限りなくナマケモノだし、エネルギー保存をしたがるんですよね・・・。これは揺るがすことができない事実です。

そこに気づいて、健常な数値で抑えることができている自分を、今は健全だと感じていますが、アメリカに長く住む前、心理学部で学ぶ前は、かなり悲しいことだと感じて、自分を責めたことすらありました。私は他のヒトに比べて「希薄すぎる・・・」と感じていたためです。

Mobility:行動範囲=世界が広がれば、自分の郷土愛が強すぎることは、異常であることに気づいてきます。適度である範囲になり、よそで生きている人々のよさや、文化そのものの+を自分のそれのように愛でることができてこそ、ヒトは成長します。自分にとっては1番だけど、他のヒトにとっての1番もある。だからそれを認める、というのがステキなことです。

私はUSに住んでから、さまざまなバックグラウンドを持って、Mixしている方々に遭いすぎた傾向があるので、私も同じようになってしまっていることに気づいています。Eclectic:いいところ取り。上等です!(笑)

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