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都会のねずみと田舎のねずみ

[1999年08月03日(火)]に書いた文章です。

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若い田舎のねずみは、毎日ののんびりした暮らしに飽きて、もっと他に何か探したいなと好奇心と希望を以って都会に出てくるが、人混みや食料の貧しさや家の狭さや人やねずみの冷たさに遭遇して、最初はあんなになかよしだった都会のねずみとも心が合わさらなくなって落胆して、田舎に帰る。そのときに、「ねずみにもそれぞれ分相応の暮らしというものがある」とか「都会の冷たい暮らしよりも自適悠々な自分に似合った暮らしがよい」など、ストーリーを読んだそれぞれに、感想が浮かび上がる。

物語のオリジナルを日本に輸入し子供向けにするときに、なぜか多少のアレンジが加えられます。それは歳月が経った場合の同じ文化のなかでも同様で、欧米ではグリムやイソップ、日本でも竹取物語や桃太郎などにも見られる現象です。幼い頃に読んだ物語の「追跡調査」はあまりしないでしょう。もちろんする人もなかにはいます。やってみるとかなりおもしろいですね。

これなども「与えられたモノ・そこにあるモノがすべて真実だとは限らない、オリジナルだとは限らない」といういい例です。

私は世間でまとめたりひっくるめられて言われる、「田舎のねずみ根性のまま都会に住み着いたねずみ」に育てられたねずみの娘でしたが、田舎のねずみの友達に「いいわねぇ、東京で生まれ育って。だから私たちの違いは大きいのよ」と何度か言われたことがあります。

でも、東京で生っ粋の東京っ子・江戸っ子っていうのは、本当に少ないです。1868年の9月に江戸から東京になったんですから、131年経ってません。広辞苑では「江戸で生まれ江戸で育った者。普通は、金銭に淡白で威勢がいいなどの含みで用いる。東京で生まれた者にも言う。江戸者」と書いてありますが、いつかNHKの特集番組を見ていて、イマドキの江戸っ子とは「三代以上東京で生まれ育った人」を指すそうです。

よく神田の駅前のおそばやさんや銀座や柳橋で見たホンモノの江戸っ子の粋なおじさんたちは、「おひさま」を「おしさま」と言い、もりそばや板わさをつまみにして、日本酒の冷やかぬる燗をぐびぐびって一気に飲んでました。で、話の途中で手鼻なんかをちゃきっと切っちゃってて、それはそれは胸が透く風景でした。そうそう、「火事と喧嘩は江戸の華」のケンカのほうも目撃しました。半纏を来た男衆で、とってもかっこよくて見惚れてしまいました、私。

でもよく考えると長野の叔父さんも喉を通すだけでお酒はぐびぐび飲んでたしな、つまみも質素なもんだったしな、ケンカっ早いしな、違いは方言と手鼻の習慣かな、なんて思ったりもしたもんです。

埼玉だって東京にごく近いのに、「ダサイタマ」なんていう言葉があったりして、私は何だかおかしいぞと思います。東京よりずっとずっと果てで生まれ育った人にしてみれば、東京も埼玉も大した違いのない都会じゃないのかな?と。それに埼玉に住んでいる、私テキにはとってもすてきでダサくない友達が私にはたくさんいます。「ダサい」という定義をし、ダサさの証拠になるものが埼玉に存在するかどうかの調査を行ってないのでわかりませんが、個人的には嘘だと思います。

『「田舎のねずみ根性のまま都会に住み着いたねずみ」に育てられたねずみの娘』はいつしかそのアタマに「日本の」という形容詞もつけます。アメリカに来てしまったからです。仲居のバイトをしているときに、ニューヨーク駐在をしたことがあるという男性が「アメリカはすごいよ。電信柱と電線が地上にないんだよ。ケーブルで地下に潜ってるんだよ!」と言っていたもので、私は San Francisco の郊外で電信柱と電線を見たときに「嘘つき!」と叫んでしまいましたが、彼は「アメリカの一部は」と言わなかっただけで、別段嘘をついていたわけではないでしょう。

ところが、私が住み始めた都会っぽい話ばかり伝聞していたアメリカってぇのは、すんごい田舎そのものでした。でも都会っぽくて日本にはないようなモノもたくさんありましたから、何だ?と思いました。”Don’t Worry, Be Happy”という歌が流行った1988年、ラジオからはその曲がその後2年、1991年くらいまでかかることになります。Listening が最初はできなかった私でも呪いのように聴かされれば何とか聴こえるようになるもんです。グロリア・エステファンの “Anything for You”が、私がアメリカに来てから最初に全曲英語で唄えるようになった曲です。1日同じステーションで10回くらいかかってた(爆)。

とにかく広い、人が多い、みんなばらばらなことを信じて、ばらばらなことをして、ばらばらに暮らしている!というのが印象でした。キャンパスを歩いている鹿でさえ、奈良公園の鹿のように予測できるような行動をするわけじゃあないのです。鹿せんべいなんてモノはないし、体格や年もばらばらな鹿がばらばらな場所に朝昼晩現れて、その時々で違う行動をして、ばらばらと違う時間にまたどこかに行くわけです。数ヶ月してパターンが読めるようになった頃には、「ああ、バラエティが多いんだよ、ここは。だから2個や3個のパターンなんかじゃ到底分類できっこないんだ」とわかってきました。

学生だっていろいろなところから来ている人がいました。アメリカ国内でも田舎だと言われている深南部や中西部やら、都会だと言われているシカゴやNYや、留学に来ている人でもアフリカ・ヨーロッパ・アジア・パシフィックアイランド、もう本当にいろいろな人たちがいました。その中で「都会のねずみと田舎のねずみ」になんて到底分けられっこなかったのです。もっともっと複雑で深淵な分類が必要で、私にはそのための資料も知識も方法もわかりませんでした。

そしてここで最終的に私が「これはいただきっ!」と思ったのは、「個人としての意志と目的と行動と選んだ環境へのコミットメントが大切である」ということです。「選択肢が多いことをヨロコべるか、途方に暮れるか」はその個人がどこ出身であろうが、その出身地が提供し個人を育んだモノが何であろうがそんなに翻弄されまくるほどのことではないのです。

自分に染みこんでいるモノを肯定でき感謝でき認められた上で、その土台に何を載せていくのかわかっていて、方法がわかっていて、どういう行動を取るのか明確に考えられて、どこに飛び込んでいるのか理解していて、がんばれるって気力と体力さえあれば、何とでもなるもんです。

元々が都会のねずみであろうが田舎のねずみであろうが、そんなことはどうでもいいなぁと、今の私は思います。自分のルーツについていつまでもぐちぐちと思い悩み、前に進めない人にはなりたくはないです。もらって得てきたものには感謝し続け、もらってつらかったことを超えてきた自分やまわりを褒められて、さらにもっと前進していきたいです。

こうして私の好きな場所やモノやコトは増え、守備範囲も選択肢も増えます。火星に行ったら、「日本の田舎のねずみ根性のまま都会に住み着いたねずみに育てられてから、アメリカのねずみになって、ねずみでいることを放棄しようとしたナマイキねずみ」なんて誰かネコみたいな人に言われちゃうんでしょうか?別に言われてもいいよな、って今は思えます。でも「食べないでね」ってお願いします。

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愛国心が足りないのか?と自分ではよく思っていましたが、心理学に出遭ったあと、その解釈についてもう少し広がった考え方ができるようになりました。自分の出身地について、大切に思う心は大切ですが、愛着を越えた執着をすることにより、自分を制限している行動はたくさんあります。そして、他者を見る目もそれによって変化します。自分の行動範囲以外の多様性を認めることができる能力はたいへんに重要です。考えてみてくださいね。mouses1 mouses2 mouses3

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