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ただ働くしかない人々

01/18/2007 にアップした文章です。

 

読み終えました、長塚節(たかし)の『土』。しかし、現代仮名遣いになっているとはいえ、たいへんに方言が多く、難解な部分も多かったです。おかしなことに、まったく違うのではあるけれど、祖父や祖母、曾祖母などが話していたキツめの長野県は南のほうの方言を思い浮かべていました。私には、このように思い出せる方言があるにしろ、ない子たちも増えているのだろうな、と、想いはさまざまなところに飛ぶのでした。どんな本なのか?そりゃぁ、まぁ、暗澹たる気持ちになる本です。が、こういう人たちが実在したことに対して、目をつぶって見なかったふりをするのは、日ごろの態度を問われることでもあり、私はちゃんと読みたいと以前から思っていたのです。

経歴はこちら。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%A1%9A%E7%AF%80 茨城県の結城郡、今、筑波サーキットがある近くになります。私はあそこに足繁く通ったのですが、こんなに強い方言の人たちにはお目にかかったことなかった。当然です。この物語は明治時代のことを書いているのですから、私の10代の終わりには軽く6・70年が過ぎていたわけです。

序文は、夏目漱石が手がけています。36歳で亡くなった長塚節は、この夏目漱石の批判も文学界の中でしていたように、この序文では窺われます。恩師・先輩である正岡子規が亡くなったのは、長塚節自身が、結核で倒れる12年前に当たるのですが、正岡子規には「農業を発展させて、自分の村を経営するくらいの気持ちでいなければならない。まずい山芋だ」と言われています。病に倒れた人には、わずかでもいいから質のいいものを、と思うのではありますが、それが長塚節の「日常」だったに違いなく、さほどの違和感があって、あるいは恩師に対してわざと送ったものとは思えません。農業の発展はまだだったのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F)

その後、村おこしのための会を作り、自分が青年会長になります。どれほどのことができたのか?は、地元に住んでいる長塚節を詳しく追いかけた作家の本を読むのがいいのでしょう。12年はあまりに短かったと思われますが、このような著書が残されたことは幸いです。どれほど厳しい暮らしを強いられたのか、さすがに『写実主義』だなぁ、と感心させられました。

長塚節自身は、近隣ではたいへんに恵まれた家に生まれています。いわゆる『豪農』の生まれで、保存されている生家は、見事です。公家や華族ではなくとも、元武士ではなくとも、やはり細かいヒエラルキーは実存し、農民の中にもいろいろな人々がいたのだということを、ここでは見て取れます。 http://www013.upp.so-net.ne.jp/karotousen/mylink2.html 彼自身は、高等小学校にも通っており、脳神経衰弱という不思議な表現の病で4年のとき(最終学年)で退学をしています。当時しか使っていなかったので、おそらく現在の鬱病なのだろうと推測されます。彼の実家には、「療養・保養」に出すだけのお金があったので、その間、正岡子規と邂逅するのです。まず、彼の作品に出会い、そののち、弟子入りし、20歳で初めて短歌が入選します。

父親は、政治家になるなどという色気を出して、散財ができるほどのゆとりを持っていたこともわかります。のち、その父親は、裁判沙汰の憂き目にも遭います。

子規の没後は、伊藤左千夫らと共に創作活動を続けますが、小説や散文なども手がけることになります。子規の亡くなったときには、まだ24歳。が、彼にはあと12年しか残っていなかった計算となります。これほどクドクド書かないと、バックグラウンドがわからず、途中で読むことを投げ出してしまうかもしれない人が多いかと思うのです。それが心配だった・・・(別に身内でも、熱狂的ファンでもないにしろ、私は生まれてこの方、一度も読書を途中で放り投げたことがないので、なるべくなら人にもそれはさせたくないとは思うのです)。

こうして、マンションに住み、一軒家のときとの夏と冬の暑さ寒さの違いを、しみじみと母と語ることがあります。マンション暮らしというのは、夏は思ったより暑く、エアコンを使わねば放熱がむずかしいように思われ、冬は相当に暖かく、開けっ放しすることがなければ、部屋の中が10度以下になることはまずありません。ここのところの寒さでも、どんなに人がいなくても、どんなに暖房をつけずとも、15度はキープできます。暖房は、なぜか一切使っておらず、狭いので、3人が生活すれば、呼気や料理で室内が暖まるほど・・・。

私が生まれ育った家は、昭和37年に父と母が借り始めた借家だったのですが、当時の家賃は1万。いわゆる文化住宅でした。寒かったなぁ。小学校に行く前は、ストーブの前で着替えをしましたし、明け方には息が室内で白かったこともよくありました。母はわずか1時間前に起きていたので、ストーブが充分に部屋を暖めることもなかったし(ストーブの性能も今ほどよくないしね・・・)、やはり今とは違い、小学校のときには手袋をして学校に通ったのです。

が、今どうでしょう・・・。アメリカに18年半もいたせいもありますが、私は横田基地の通訳で、現場にいるから、という理由だけで防寒しています。そもそも、ストッキングを嫌い、タイツなどは10代になってから一度も履いたことなどないのですが、今回、スキー装備になっています(笑)。が、今は昔。「みんなそうだろ」と思っていたところがあり、苦労などとは思わず、他人を羨むことも途中ですっかり放棄しました。

これらを踏まえると、『土』が描くお百姓の暮らしは、私の経験したものの10倍ほどひどい。コレを読んでいるみなさんの中で、そもそもの私の暮らしを想像できる方は、多少いらして、さらに、この10倍を想像できる方は、相当少ないのではないかと思われるのです。私は、おもわず電車の中で泣きましたし、自分にはこのようにけなげに、それでも来る日も来る日も死ぬまで馬車馬のように働き続けることができるのか?と問いかけました。そういった質を持たねば、きっと格差社会の下層に追いやられた人々は生きていけなくなるのかもしれないです。が、そんな質を持つ人々ばかりではなく、ニュースでは孤独死や貧困死やさまざまな「貧乏がゆえ」から発する悲しい事実が報道されます。

食べ物も粗末で、栄養価などは考えられず、病院に行かないために人が死に、ひもじさがゆえに「ほんの出来心」で盗癖を身につけ、大志をもてない。目先の現金や収穫を考え、長い目での希望が持てない。こんなふうに追いやられるかもしれない人々は、現代でも確実にいるのです。それから目を逸らすことはできないです。

『土』の解説文にあるのですが、すべての登場人物は実在の人々をモデルにしたもので、余計に哀れさを誘います。長塚節が丹念な取材を続け、会話や実際を見、写実主義を貫いたものなのです。どんなにつらくても、純粋で善良な人もいれば、我が身かわいさを前面に出す人もおり、先天 vs 後天の影響を、ふとまた考えてしまいます。

私の今の仕事はとてもラクで、愚痴や不満など持ってはいけないことだと、自戒しました。西さんにも熱く語ってみたのですが、どれほど受け止めてもらえたのか・・・。週末にはゆっくりまた話してみます♪

 

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