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ひとりが好き

08/05/2006にアップした文章です。

 

コメント欄からいただいたお題です。私は物理的にひとりでも、広いところにひとりでも、長時間ひとりでも、不安を感じたり、さみしくなったりしないんだよなぁ・・・。以前書いたことがあるのですが、私は大勢の中での「孤立」のほうが「孤独」よりよっぽどさみしいし、虚しい。それを根本的に避けるために、他人と群れることをしていないのでは?という誤解も多々いただいたことがありますが、残念ながらそうではないのです。私には最低限、他人に求めるスタンダードがあって、それをクリアしていれば誰とでもつきあいます。が、理解しようという情熱がなく誤解を抱いたままでコミュニケーションを取る意志がない人を後追いしたり、無理強いをしたりするのは面倒すぎる・・・。人をこちらのほうが積極的に&根本的に変えるなどというおこがましい考え方は持っていないので、できる範囲で「見せる」「持っている考えを示す」ことはできても、押し付けることはしません。

母が最近開拓した飲み屋さんにも二度ほど行ったし、今までの飲み屋さんにも顔出しはしたのですが、年配の女性は「まだまだ若いしきれいなんだからきれいにしたら?」とよく言われます。へいへい、13年ぶりほどの日本の夏対策で、私は本当にちんたらダラダラしたカッコウしていますよ・・・。日本に戻ってから化粧は一度しかしていません。営業に出るときも挫折しまくっています。本来、仕事に結びつくことに関してこんな態度ではいけないのですが、9月まで待ってぇぇぇぇ。

そもそもきれいにしたくないのは、私のPTSDの後遺症が強いのかもしれません。誰かに注目されたくはなく、好かれたくもない。頭に立ち入られるのは歓迎ですが、心や身体に立ち入られるのはちょっとカンベンしてもらいたく、不安です。キラキラ輝き楽しく見えるようになってしまうと、なんとなく視線が集まり、なんとなく好かれてしまう。バラが庭園に咲いていてきれいなことを気づくのは、疲れ果てていない人であればできます。が、野草がひっそりときれいに咲いていてきれいなことに気づくには、ゆとりが必要です。そんな第一関門を設けるためにも、私は身なりを放置する時期を延期し続けているのかもしれません。もともとかなり派手な顔なので、化粧などしなくてもそれなりに社会に攻撃的にはなりません。だから興味本位のみの人たちには放置しておいてもらえたら、と思うのです。ひとりでいることより、どうでもいいといずれはみなす人にちょっかいを出されることのほうが不安なのです。

考えることが多いし、枝葉に分かれて勝手に脳みそが関連ゲームを始めてしまうので、コミュニケーションを取るときと、自分ひとりで考えるときには時空を分けています。私といっしょに住むと滑稽なのは、TVの前にリモコンを持ってスタンバイするときであっても、なぜか本を手元に用意する。トイレに立つときもなぜか持って行く(日本の今の家は狭いので置くところがないし・・・)。ひとりでいることより、活字がないほうが不安なのです。

社会動物においては、この社会性・孤独や孤立に対する不安は、いろいろな行動に対する動機として強いものになっていきます。が、もっと大きな根本的なものが、愛という名詞に代表される「他者との繋がり」「絆」です。が、この必要量やどんな根源から必要なのか、その愛が何を伝えるのに有効なのか、はまだまだ学説は多様です。どこを切り口にするかで解釈は大きく変わってきてしまうのですから。

ちいちゃんが書いた「大学を出ていたり、生存するのに必要なものを充分持っている大人」の中で、この『愛』の部分をもらっていなかったことを痛感したコメントがありました。だからちいちゃんは、ごくごく当たり前のことを与えられるものであれば与えていく態度があるわけです。が、うんと冷たい私はその前のコメントで記しています;他人様の子ども時代を巻き戻すようなことは私にはできないし、したくもないかな。本人が変わりたいからと望む気持ちが強ければそのときに考えます。おせっかいじゃないのね、私…。

ひとりが好きな私は、やはりひとりが好きな誰かがラクでいいのです。しがみついてくるような愛情を求められてもつらいだけ。「自立しておりひとりで充分にやっていけるのだけれども、愛情があふれており倍にも数倍にもできるから他人とシェアし、つらさや悲しみが半分以下になるからシェアする」ために、恋人や配偶者や友だちを求めて、関係を続けているわけです。

お金をもらった仕事だったらやりますよ。プロとして問題の根本解決には努めます。が、心理学で言われるようなTransference(感情の転移)を、お金ももらっていない誰かに振りまくような行為は自らしたくはない。要らないリスクは避けるに限ります。ここが私の冷たさの根っこなのかもしれません。自衛がまず大切という態度。きっぱりしすぎている態度なのかもしれないです。

この軸の他にさらに、「教える・与える」ことを押し付けない態度という確固たるものが入るので、さらに強固に見えるのかもしれない・・・。愛し方を教わるようでは・・・とは冷たい私は思うのよ。オオカミの群れに捨てられて人間に発見されたのが12歳なら理解しましょう。が、親御さんがいらして、ごはんを食べさせてもらい、遊ばせてもらい、学校にも出してもらったのであれば、私が時間を巻き戻して、誰かがあげるはずだったはずの愛情の肩代わり、補償や補完をしようとは、到底思えません。

私を大きく裏切った人は、愛情がとても欠落した人でした。ちいちゃんが言うような状態ね。他人様に迷惑をかけるほどのひどい人ではなく善人なのでしょうが、自分の保身のためになら何でもやる。人を裏切ったり、他人に嘘をつかせたり、法的にヤバイ品物を預けたり、約束を平然と善人面で何度も繰り返し破ったり、お金で解決できることなら冷淡に実行するわけです。安全な道を常に歩き、遊びのバクチだけで冒険をする。本当は小心者だから自分の人生は自らの手で変えられないわけです。が、私は彼の母親でもないので、その欠落がいつか彼を絡めとる事件が起き、彼の今後の人生がどうなろうと知ったこっちゃないです。彼が人として欠落したところについて、私が補償・補完できるであろうところはありました。やってきたはずでした。が、裏切られました。「彼はそういう人だったのよ。幼い頃から欠落したところは、私ごときのパワーじゃなんともならないわ」と自嘲するしかないわけです。次に出会う人にまた同じことをするかもしれません。今度こそは変わるかもしれません。祈るしかありませんね。

何度も言うようですが、人間は積み重ねの存在です。幼い頃に欠落したことは、たとえ留学生となりよその家庭に入ってもダメなものはダメです。長い時間をかけて距離感を詰めて過ごしてもダメなものはダメです。いい学校に行ってもダメなものはダメ。本人次第なわけです。本人が気づいて何とかしようと決めるしかない。選んで努力するしかない。本人の機が熟すのを見極めるのは、大人であれば最終的には本人だし、理想論としては子どもであっても本人であってほしいわけです。

ひとりが好きだからこそ、孤立していない自分・孤独に震えていない自分に感謝することができるのだ、と私は自負しています。「失ってからわかる大切な人からの&大切な人への存在から来る相互の愛情」のミニチュア版をいつもいつも体験しているわけです。なので私のバロメータは「ひとり?けっこう好きですよ」ってので、社員のさとみちゃんもひとりが好きです。すまいるも「ひとりになりたいよぉ」と叫びますし、西さんは山に数ヶ月くらい篭れるんじゃないかな(笑)。

うーん、うまく繋がっていない気もするのですが、ご勘弁を。

 

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