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世紀末の惨事

1999年のいつか書いたやつです。

 

だめですなぁ、テンションがとっても低いです。考えが一点に集中してはまた拡散して堂々巡りをしています。阪神大震災あたりから、ノストラダムスの予言に立ち戻ったりする風潮があって、私も多少は影響されているのかなぁと思ってきました。どうやら見事に影響されているらしい…(汗)。うーん、真剣に考えてみよう、と思っていても惨事に巻き込まれた人たちのことを思うと冷静になりきれずにだるだるしている。気を紛らわせようとして、リハビリをして、ごはんを大量に作り置き系のモノをたくさん作ってみました。20分ほどしか気は晴れませんでした。

昨日のFabをアップしてから、今度の土曜日に行く!と張り切っていたチベット気功師までが「家族の緊急」でチベットに帰国していることまで知り、けっこうな打撃になってしまいました。私が神秘の気功を受けられないからという動機ではどうもなくて、運命の非条理みたいなもんにつっかかってしまったような気持ちです。

そのMonk(お坊さん)は人を助けるために全世界を行脚して、気功というツールを使って人々のしあわせを望み、自分なりにしてきたことを披露して「癒す」という作業に邁進していたのですが、彼にもやはり救えないものは当然あり、どうしても誰も解決できない運命という大きなモノに無力感を感じてしまった、というところでしょうか?

私は普段は「ん、運命ってたぶんあるんじゃない?でも自分で切り拓けばどうにだって変わるわよぉ」な人間であるのです。これをLocus Of Control(コントロールの位置・中心)と呼びますが、【個人がどの程度自分の行動を環境要因に原因があるとするか、あるいは自己の決定に原因があるとするか、という度合い】です。私はこの「自己の決定に原因がある」というのに委ねる割合がとっても多く、説明しきれない結果を見たときにも、まだまだしつこく「自己の決定」検証をして切磋琢磨します。

ケネディJr.の事故のときも落ち込みましたね。何たって「アメリカのロイヤルファミリー」とまで呼ばれた伝説的な偉業を遂げたとされる家族の一員です。捜索活動の映像もドラマチックなさざなみを心にもたらしました。けれども、やっぱりよ~く考えると、Jr.が取った行動というのは「危険を伴う自己決定」であったことがよくわかります。報道がどの程度まで正確だったのか、はまた別の話ですが、私はパイロットであったので(うーん、過去形ではなく一度ライセンス取るとずっとパイロットなんだけど♪)飛行機の型や天候や地形や飛行時間情報プラス彼のパイロットとしてのそれまでの学習成果を見れば、「こりゃ危ないってば」と思います。彼がどんなに英知に長けた人だったのかも実際にはわかりませんが、自然をなめちゃいけないわね、という材料は確かにひとつやふたつでなくあったと思われます。

判断力というモノで防げるか防げないか、という惨事について「ああああああ」というのはあとから原因やプロセスがなぞることができれば、なんとか心のなかでケリがつくのです。もちろん哀しいことに変わりはありません。けれども納得できるかできないかはとても重要なことです。哀しいだけを心に溜め込むだけでなく、何がどうしてこうなったのか、ということを知ること、それを今後に生かすこと、それらを毎日の生活に生かすこと、自分を防衛すること、愛する人を防衛すること、これらはとても大切です。これは天災や事故でなくとも、自分スケールの心の波や問題についても同じことです。ですから、一昨日書いた自律神経失調症のように原因かもしれない問題点が多数あってそこからどれが自分にとっての本当の原因なのか、ピンポイントできる力があれば、ものすごくラクであるし癒すことも可能である、ということです。

でもゴシップ系の野次馬根性と、この好奇心は質が違います。なぜならば知ったあとに必ず意識的に自己に還元するという作業があって、当事者意識があるからです。「ん?私にはこんなことは起こらないわ」「家の家族に限って」「この場所は比較的安全だから大丈夫」というのは、やっぱり親身さが足りないと思います。人間はいつでも「試されている」んだというのは、私は毎日感じています。たとえテレビの向こう側であっても。そしてそういう自分が好きですね。ゴシップでミッチー・サッチーに群がるのではなくて、アレについてもいろいろ考えました。自分がこうしてはいけない、ということ、こうしたらいいじゃないか、ということ、たくさん考えました。署名運動に真剣に参加している人たちのことを馬鹿呼ばわりするなんて私にはできないです。それが当事者になれない私の当事者意識です。

私の住んでいるところはHayward Fault(ヘイワード断層)というところに見事に乗っかっています。地層がずれている状態のことですが、アメリカの規模はでかくて何マイルも続いています。けれどもLocus Of Controlで、「断層が地震を呼び、人間は天災に負けて死ぬ」という環境要因にすがっていない私は、地震のための準備はしています。家を買うときにも耐震設備をしつこく聞くことも忘れませんでした。デザインや値段や立地だけ見てたわけじゃぁありません。ネコたち家族のことや、西さんと逢えるのかどうかも考えて決めました。起こるか起こらないかを何も準備しないで待つよりも、来るという前提で準備しておけば、安心で振り回されません。

けれども、地震や今回の東海村事故のように、エキスパートにだけ細かい情報があるような種類の事故への準備はできません。だからどうしても事故が起こったあとに「無力感」を味わってしまいます。閉鎖された壁の向こう側に何があるのか、今まで何人ものルポルタージュがあっても多数決やら権威に踏みにじられていました。当事者になれない、ならせてもらえなかったわけです。児童虐待もそうです。閉鎖された家庭に他人が踏み込める権利もないのですね。死んでしまった子どもの写真を見てあとから泣くだけです。Locus Of Controlの自己決定部分がない、と思い知らされる時です。自分に関係ないとは思えない私は、そうして無力感に浸り、運命という言葉に翻弄されます。

どんな事故であろうと、必ず「人為的」な部分は大きいのです。天災に関してもそこに住宅地を作るのであれば調査が必要である、という当たり前の前提があって然りです。エキスパートの調査を要求する権利もあります。あとから何かでかいプラント(工場)建設が持ち上がっても「住民反対」はできます。けれども基本的な自衛の知識がなければそれもかないません。そうしてエキスパートの知恵を持った人が心なく「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言って「操作にも細心の注意を払っています」と明言しても、こういう事故は起こります。犠牲になる人が私の愛する人でないからいいということではありません。ああ、核についてのデモにも参加しておけばよかった、などとBeat(打たれる)されます。ああ、身体が何個もあればよかった、と夢みたいなことを考えてしまいます。

飛行機事故も虐待も恋愛も離婚も勉強がうまくいかないことも仕事の悩みも健康も、確かにたくさんの要因が重なり合っているし、たくさんの人間が関与していることですが、運命だけではないことです。運命の存在は否定できません。あるかないかを証明できた人も居ません。そこにあることはおそらく確かなことでしょう。けれどもそうでなく、人為的なことでコントロールできる部分までも「運命」というのを止めて、自分に対してはコントロールできる自信を増やしていけたらいいなと思います。本当に都合のいい言い訳に使う場合は止められたらいいなと思います。私が関与できないことにこうも無力感を憶える私はおろかかもしれません。けれども生命が失われることは何につけてもつらいことです。

そういう意味で人間は死ぬまで学習しなくてはなりません。便利にテクノロジーに依存した分、よけいにそのツケは払わねばいけないのだと思います。そして無力感どっぷりでパワーの源に頼れない私は、父の位牌に手を合わせてお線香をあげてまとまらない考えを静めようとしています。

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