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人を嫌う

Dec 18, 2005 に書いた文章です

 

私が人を嫌う観点は、「自分の生命体としての価値を冒すことを投げかける人」です。

たとえば、簡単に暴力を振るう人。暴力のすべてが悪いとは言いませんが、かなり大きな確率で何も解決しないことは確かです。自衛や愛する人を守るために、格闘技やスポーツをして精進することはいいと思いますし、サバイバルのために谷や山を駆け巡ることができるくらいの体力があるのはいいと思います。が、自分以外の生命体に向けて、「生命体を守る・生き延びさせる」という以外の理由での暴力は、私はどうしても賛成できません。テロリストや革命分子の理論もここから来ているし、それに立ち向かうUSを筆頭とした武力行使もここから来ていると思うのですが、他人の同じ権利を無視して、自分たちだけが生きても仕方がないし、『暴力は最後のうちの最後の手段』として覚悟を以っていなければ、ただの言い訳であり、簡単な問題解決方法です。

私は実在の人物で、「女なんて殴っておけばいいんだよ」「殴ってでも黙らせろ」と言い放った男の人たちに遭った事があります。当然、私はそういう人たちを避けてきました>二度目の遭遇はもうないよ、です。

コレは個人差があることですが、私は長年の喫煙や飲酒のわりには、鼻がよく、不衛生攻撃もかなりダメです。帰国して、ガレージがみょーに、シンナー系で臭いことをすぐわかり、社員Sちゃんに聞いてみたところ、ドアにお触れがあったそうです。6台入るガレージのイチバン左端に、その臭いの元があったのですが、布ではなく、皮のインテリアだというのに、ものすごい臭いが充満していました。すでに帰国から2週間経ち、そのお触れから3週間が経とうとしていますが、私はまだその臭いを感じているので、時間が許す限りは、日中車を外に出してあります。あんな身体に悪いものを吸わされたら脳細胞が破壊されるよっ!と、脳神経とドラッグコースを取った私としては思うのです。

腋臭などもけっこう敏感に気づくほうで、言いにくいことではありますが、本人が気づかないことが多いですから、ちゃんと私は本人に一度は言うことにしています。そのせいで、病院に行った人もいるので、悪役になるのもいいではないか、と思うのです。さらに、行き着けのお鮨やさんで、ものすごーい香水をつけてくる女性がおり、それもとても気になるので、遠くに座ることにしています。話していて性格的に別にイヤなところがあるわけではないのですが、きつい香りのせいで、お鮨がぼやけて見えてしまうのです。タダでさえ酒を飲み始めると食べない客と言われているのに、食欲減退の元からは遠ざかったほうが自分のためです。日本の電車でもけっこう人が発する臭いには敏感で、苦しいことはよくあります。

我が家では、ネコの独特の臭いがひどいので、どんなに寒くても暑くても、そのために早起きして一度、すべての窓とドアを開け放っています>玄関だけは朝早くからネコにお散歩に出かけてほしくないので鉄扉にしておきますが(朝の通勤時間には車の通りが多いので、交通事故遭遇確率を減らすためです。しかも米人の朝は早い・・・)。
視覚的にもつらいな、冒されているな、と思えるものはあり、私は目の色素が薄めなのか、弱視なのです。それほどかんかん照りではなくとも、サングラスは必需品です。さらに、自分が運転をしないと車酔いをする傾向にもあります。ビジネスパートナーの車はでっかいSUVだったので、助手席でご機嫌でしたが、ゴキブリ型の地を這うようなものだとさらに平衡感覚は混乱させられます。飛行機は自分が運転ができるので酔いにくい傾向にありますが、船は酔い易い傾向にあります。高校生で通学慣れする2年生までは、電車の中で本が読めませんでしたし、葉山で初めてクルーザーに乗せていただいたときにはゲロゲロ18時間くらいやっていて、なーんにも楽しくありませんでした(汗)。そのあと、ハワイでもチャレンジしたのですが同じでした。やっぱり小型船舶のライセンス取らないとダメかもしれない・・・。

あとは、人間関係における「自分の生命体としての価値を冒すことを投げかける人」ですね。けっこういるものです。なるべく人を嫌いにはなりたくないのですが、攻撃的な人は避けるか、嫌いなことを表明するしかありません。段階的には、私はある人の行為を嫌いになるので、行為について「やめて」「あまり好きではない」「それは○×だ」と説明はします。が、その時点ですでに、自分を丸ごと否定されたと思う人も多いことは確かです。そのある個人がやる5割以上が嫌いなことだらけになり、修正の余地はまったくないと本人が決めたならば、私はもうおつきあいをしないことにしています。そういう場合には、もう生命体としての基本理念が違う場合が多いので、罪悪感も何もありません。自分が変わろうとしない限りは、人はなかなか変れないものです。実際のところは日々変われる・変化しているのですが、本人が変わっていないと思いながら、ますます頑固なほうに変わっているとわけです。すでに見ている基準点がズレています。数値化したらかなりな誤差がここで出ているわけです。同じものを見ているのに、同じものを見ていないと主張されては、話しても生産性はなくなります。

私が好きではない行為は、人間関係に上下をつけようとするもの。学歴だの性差だの年齢だの経験の違いなどで、人の価値をあげたり下げたりのパワーゲーム的な考え方についていくのは疲れます。私の健康によくない。ある物事については誰が勝っており、ある物事においては誰が、というキリのない話をする人に限って、世界人口のヒトだけに限っても正確な統計など取れておらず、「じゃ、あなたが尤もらしく話してる人口の平均値μは、実際は、あなたが見た世界に限定されていて、しかもランダム抽出でもないMなんでしょ?」ってことになります>統計学はわかったほうが楽しいので、基本概念はおさらいしたほうがいいです。

たとえば、Aさんは頭がすっごくいい、という主張があるとして、それが正確かどうかを見るにあたり、「日本で」とするのか「世界で」とするのか、「東京で」とするのか「○×町で」とするのか、「自分が見た範囲では」とするのかで、平均値は大きく違うことになります。ここが曲者で、すべてを「自分が見た範囲では」という注釈を端折り、とても自分が正しいとする考え方に、私はついていけないのです・・・。いいか・悪いか、の二元論で50-50のどちらか、の話をしているならいいです。できたらみんな賢くあってほしいです。が、Bさんより頭がいい、Cさんより何倍も頭がいい、などと言われた日にゃぁ、考え方の構造を疑ってしまうのです。

自分の限られた行動範囲の中でしか物事を考えられない現代人では悲しすぎます。「井の中の蛙大海を知らず」を死ぬまで続けていく人たちには、井戸の中だけでの物事しか私も話せなくなります。そうなると、私の存在価値や世界観にとっては、とても冒された条件付のおつきあいとなります。

パートナーを私が選んだ理由のひとつは、彼には大きな視野があり、それでも私のことがいい、と言ってくれたことにあります。ますます賢くなり、ますます楽しくなり、ますますいきいきとしていく私のそばにいたい、と言ってくれたことにあります。

行き着けのお鮨やさんは、「俺はただの鮨屋だからわかんないけどさ」などと言いますが、「鮨の世界の外」のこともたくさん知ろうとしているし、わからないことはわからないとはっきり言い、物事を自分の価値観だけで決め付けることがないので、いつも楽しく話しています。そういう意味で、私は他人の価値観を大切にしながら、存在意義を大切にしながら、真実を追いかけていこうとする態度が、たまに傲慢に見られることがあります。「なんであんたのほうが正しいのよ?」と。私が正しいのではなく、人類の英知たちがこれまで培ってきたものが証明したことが正しいのですが・・・。

でもいいのです。明日の米粒を心配しながら生きていくはずの路線に生まれた私が、「自分の生命体としての価値を冒すことを投げかける人」について何かを書けるようになったわけです。人は変われます。

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