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仕事・キャリアを選ぶにあたって

01/07/2007 にアップした文章です。

 

校長センセの本を2冊読んでから、これについて考えています。私は基本的に怠け者に長くなっていたいので、働くときにはしゃかりきになって働く、というやつなのですが、仕事はおそらく好きなのでしょう。このバロメータは、「時間が過ぎるのを早く感じるか・遅く感じるか」が、相当に正しいのではないかと思うのです。いろいろな仕事やアルバイトをしてきて、そのほかにも余暇や遊びや所用などで、1日24時間はあっという間に過ぎていきます。まぁ、イチバン「あっという間」なのが、睡眠で、起きていないので記憶が定かではないという弱点があるにしろ、実際に確実に睡眠時間は刻々と流れているのに、ものすごく早く過ぎた感覚になる。コレは、おそらく好き以前の「必要としている」から来るもので、ちょっと睡眠だけは省いて考えてください。

私が校長センセの本を読んで感じたのは、「あー、校長センセは、キャリアや仕事を選べる立場の人々に向かって書いていらしたのだなぁ」ということ。上の学校に行くことは、「当然」なことではなく、あくまで「オプションにわずかにぶら下がっている一縷の望み」であった私には、16歳という労働可能年齢になったら働くのは当然でしたし、生涯働くというのも「当然」で、オプションになった今が恐ろしく夢のようです。あ、今は起業をしてしまったので、また「当然」に戻っているのですが、やはり骨の髄まで染み付いた性分・習慣・モノの考え方というのは、なかなか変わらず、私は生涯、なんらかの形で労働を続けていくことと相場が決まっているのです。

日本の憲法における国民の三大義務は知っていますか?

  • 教育
  • 納税
  • 勤労

なのです。私はとりあえず、さまざまな立場に変わったことはあれ、すべての義務を果たしてきました。その中で、キャリアや仕事を選ぶというのは、贅沢なオプションであったわけです。いい歳こいて、遠いアメリカまで行き、学歴と職歴を身につけた今、「あー、よかったなぁ、選択肢が少し広がって」とは思うのですが、ここのところのエッセイにも書いている通り、私は肉体労働なども自分の選択肢からはまったく外していません。そんな贅沢をこいている場合ではないし、身分でもないと思っているからなのです。それは生涯変わらず、今ですら、「条件がいいほうが、身体がくたびれないで済むからいいや」程度で、特に自分の才能を使いたいだとか(そりゃ使ったほうが、社会還元もできるのだけれども)、他人より華々しい職種を選びたいだとか、人生に有意義なことをしたいだとか、他人のためになることを体現したい、というのは、至って希薄です。第一義である「メシの種」以下の、2位から100位くらいまでの事由は、私にとっては、1位との差が天と地ほどにあるのでした。

この考え方を自分に留めておくというのは、私にとってはたいへんに大切なことです。私のルーツである、貧乏だったこと。誰にもまともに相手にされてこなかったこと。実力行使をするために努力してきたこと。母親すら信じてくれない教育を受けてきたこと。そんな私をずっと信じてきてくれた西さんがそばにいたこと。職業や経済力やその他の人間の付加価値で生じるパワーに、大いなるパワーを自分としては与えないこと。などなど、私がこれからもまともに生きていくためには、やはり仕事は「メシの種」でいいと思っているのです。

校長センセの著書の中には、「仕事はメシの種だけで満足ですか?」という問いかけがあります。私は、満足だったのです。それはそれは本当に長いあいだ。16歳から24歳半まで、私はアルバイトしか選びませんでした。そのあと、なぜ就職しなかったか?それはシンプルです。「私などでは世間に通用しなかったから」という極明解な理由です。少しだけ、頭の回転がよくなった私は、就職をしてもなお生涯、他人に踏み潰され利用され、社会の底辺に位置していくしかないことには、どうも我慢できませんでした。そのために、朝から晩まで空いた時間をやりくりしながらバイトをし、学費も払い大学まで行ったのですが、教職を取っても日教組に落胆し、教育現場に絶望し、仲間世代に憤慨し、ホワイトカラーではない方法を模索しようとして考えたのが、手に職だったのです。でも、まったくのブルーカラーでは、職を得てからもずっと底辺にいる人間だとナメられてしまうと、なぜか世間を斜に見ていた私は、ホワイトからブルーカラーである、パイロットになろうと思ったわけでした(笑)。エリートとして採用されて養成所に入る道筋ではない場合には、小型からのし上がる努力が必要なので、完全なるホワイトカラーではなく、ブルーが残る感じなのよ(笑)。

パイロットのライセンスは取ったものの、航空界全体に辟易している私に、父の最期を看取らねばならぬことがタイミングよく起き、日本に戻ってみたら、たったの4年の英語力でも充分お金になることがわかったわけです。メシの種は、英語へとシフトするのでした。でもその当時も私は貧乏性だったので、無駄に遊んでいる時間がたまらなくつらかったので、飲み屋さんのヘルプもやったし、ウェイトレスもやったのです。その頃は、もうお金にうんと困っていたわけでもないのに・・・。29歳になったから、もう今後は水商売はできないと思ったので、最後にやりたかったというのもあったのかもしれませんが・・・。

その時点でも、私は日本に残り、FAAのコマーシャルライセンスを日本用に取り直してくれるため、丸抱えしてくれる条件を提示してくれた会社のアテがいくつかあったのに、すべてを丁重にお断りし、アメリカに戻ったのです。なぜだったんだろう・・・。当時のお誘いは、1993年の年収で1千万から1500万。まったく悪いはずはなかったのです。むしろ、アメリカに戻ってから何をしたいのか、きっとそのほうが、ずっとずっと苦労が多いことがわかっていたにも拘わらず・・・。

今だからわかるのですが、私は一箇所に長く居られる自信が、まったくなかったのです。FAAのライセンスを日本用に書き換えてもらう費用への義理や、人間関係に絡め取られるのが、想像の段階ですでにたいへんにつらかった。西さんもなぜだか待っていてくれたし、アメリカの大学に行ってみようかな心は、飛行機学校に居た頃からすでに頭をもたげていました。

起業をして、自分の会社ならいざ知らず(しかも、儲かったら止める、売り払うなんて簡単に言っているしね・・・爆。学校に生涯通うためだけのお金が欲しいと宣言しているし・・・)、自由でいられなくなる、見えない束縛がイヤだったのだろうと、今ならばわかるわけです。

今も、肉体労働や通訳や翻訳や介護系のお仕事を、勉強させてもらっているという気持ちで、続けており(毎日じゃないから、気まぐれだから続くのだけれども・・・)、1987年当時、リクルートの人に聞いた7000種の職業のうち、何種類できるのか?をまだ拡張しているような状態です。今はもっとその数が増えているのだろうけれども・・・。

今日も「あー、私にはこのような自由な仕事がいいのだな」などとつくづく感じていました。午後には、『認知症とともに生きる』という講演会にも行ったのです。ミシガンの英語が聴けてよかったよぉ。こんなことができていいよね、この仕事・・・。

そして、やはりどこかしらモラトリアムな自分は、生涯変わらないのだろうと観念しつつ、それでもキャリアを選び、社会に出たほうがいい若い人たちには、NEATだけはやめておいてほしいな、と願うのでした。仕事やキャリアが選べるのであれば、自信を持って選んでほしいです。でも、肉体労働ってけっこう楽しいわよ♪

 

 

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