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保身の実態 その3

11/15/2007にアップした文章です。

 

私が日本に戻ってきて、これまで眼にした事件や世相の世知辛さは、間違った個人主義の輸入からもたらされており、少子化や閉鎖性(近代化の建築やムラ社会の解放などに伴い)が手伝い、技術革新のいいところ取りをどんどんしてきた揚句、口八丁手八丁な人間の模倣学習をしている、0歳から20歳くらいの段階にいるような、そんな情ない状態のままの大人たちが蔓延しているのではないか?という疑いが晴れていません。何度かこれについては説明しようとしてきたのですが、いつもまとまって書けてはおらず、ただの批評家のような口ぶりになり、自己嫌悪に陥りそうなので止めていたのです。

そもそも、国や文化というのも、ヒトと同じく、積み重ね、蓄積の存在です。ただし、老朽化してしまうので、ヒトの手により、その記録が残されたり、言語があることが前提となり、口承や習慣化などで残ったりしていきます。淘汰も当然あり、なくなってしまった国もあれば、絶滅したり隠されてしまったりした文化というのも、多数あり。

そして、個人主義ですが、もともとは大いなる全体主義を採っていた日本に、戦後、個人主義の考え方が次々と輸入されてきた。実際は、鎖国廃止後のペリー来航の頃から、脈々と輸入され続けてきたのでしょうが、TVが発達するまでは、それほどの危惧は持つ必要性がなかった。そして、TVのあとは、ネットだ・・・(汗)。いや、私などはそのおかげで、恩恵をたくさんたくさん受けているのだから、こんなネガティブなことばかり言ってはいかんのです。感謝も含めて、諸刃の剣について考えて、そのように使っていかねばならぬのです。ヒトがやることですから、天地ほどの差があるわけもなく、利点があれば用いられ、そうでなければ滅びる。が、利点を正確に輸入していないことにも気づけないのが、オリジナルを知らない人々の悲哀でもあるわけです。

昨日書いた、視覚に頼る、生命体としてのヒトの性について、深く考えられた方は、「その誤差」についても考える余地があったであろうと思います。簡単な認知心理学の紹介で、「死角」についての説明をして、本当に死角を体験してもらうことがよくありますが、眼の構造上、あって然りの死角をアナロジー(類推・喩え)にして、誤解した死角や幻覚や残像などがもたらず、脳への記憶違いや、インプットのそもそもの情報間違いなど、おそろしい数になることは自明です。そして、このような誤差はどんどん裾野の広がり、もう収拾などはできないだろうな、と思えるほどになってきている。

ゲンダイジンのこの弱点に拍車を掛けたのが、マスコミという名の便利なようでいて、なかなか難しい媒体で、TVや活字やネットなど、多岐に渡り、しかも、私のような個人までもが参加可能になってしまったため、この世の混沌はますます進みます←自嘲混じり。

以前書いたのですが、聖書がなぜこれほどまでにベストセラーとなっているのか?という理由の中に、説得力があります。その説得力の簡単なマジックのひとつは、Repetition(=繰り返し)。同じことを何度も何度も書くと、それが重要であると主張すると同時に、読んだ人間や聞かされた人間にとっての浸透度も高くなるという技術があります。1日ワイドショー漬けになってみるとわかるのですが(え?そんなことしたかーないって?私もしたくはなかったんだけれども、身体を張った実験なのよ・・・)、いかにこのRepetitionが多いか?ということがわかります。しかも、別の人間が言っているということで、人はそこに信頼性や有効性まで見出してしまう。不正解なんですけどね、これ・・・。

ネットでもMixiなどもトリックを使っており、あれらのコミュニティは、そもそも共通点や感性が似た人間の集まりになっています(これは証明済みなのですが、人は共通性を見出して人間関係を構築していくものであり、異質性からは共通性を見出し、安全距離を確保してからでないとなかなか先に進まない。国際結婚などは、容姿や言語の違いよりに勝るほかの共通点があったことになります)。それらの人の数や意見が、いくら増えたからと言っても、実際はそれほど意味の深い数にはなっていないのですが、数字が大きくなればなるほど、そんな意見が多いのか?という錯覚を持たされてしまいます。

匿名性があり、個人情報が漏れないところで、誰かが無責任なことをいくらでも吐露でき、昨今では画像まで貼り付けられて、地球上でネットにより、倖せになった人よりも、不幸せになっている人のほうが多いんじゃないか?と、私は考えているところなのです。自分が誰なのか特定されない場合、人は相当に大胆なエスカレーションを示す。これは、種々の実験で既に証明済みです。地位や名声がある人間であっても、公で話をする場合、味方が多ければ大胆なことが言えることも、証明済みです。そこには、計画的だったり意図的だったりしてもしなくても、保身する態度がある。が、悪口やニュースのネタにされている対象物や人間に対しての配慮はどんどん薄くなっている。

この個人主義の間違った輸入の上に、都合のいいところでばかり、全体主義を使う傾向って、一体何なのだ?というのが、私の1年と数週間でのイチバン大きな感想です。

もうひとつは、昨日も書いたびっくりしてしまう経済的パワーへの希求により、ムラ社会で起きていた根回しが、正当化できると未だに思っているほどの幼稚なメンタリティ。自治会の会費でビール飲むのと、国民の税金でゴルフ会員権買うのは同等なのか?自分さえよければ、他人、他の生命体はどうなってもかまわないという、全体主義の美徳である「共生することによりサバイバルチャンスを増やす」という基本ルールに反する乖離をいとも簡単にできるのはなぜなのか?と、呆れてしまうことが多くなっています。

基本はここです。自分がやられたくないことは他人にもしない。これは幼稚園のお砂場で学んだことだという、ベストセラーがありました。1980年代のことです。これは個人主義だろうが、全体主義だろうが関係ない。ヒトが大きな脳を持つようになり、発見し維持してきたいいところであるに違いない。ところが、これを棄て去ろうとしている、あるいはすでにできている人があまりに多いのである。地球上に住む全員に対してやれ!と、厳しく不可能で、非現実的なことを言っているわけではなく、せめて、自分の周りから、と、私は勧めているのですが、どうもマスコミやネットのおかげで、その可動性の広がりについてくる責任というのを考え付かない器であっても、手軽に行動はできてしまうから、問題収拾はできない。

昔も散々書いたのですが、車は凶器になりえます。だのに、車の基本構造も知らなくて免許が取れてしまえることが不自然である、と。コンピューターの基本構造がわかっていなくても、ネットができてしまうお手軽さ(校長センセはこれをBill Gatesのせいにするだろうか?)もあり、料理ができずともサバイバルできて、ムラ社会が崩壊しても、自分の仕事をせずとも食わせなければどうしようもないだろうという体面の名残や、間違ったHumanity(人道)が横行していくわけです。

そしてイチバンの難問が、大企業や大人である人々がする保身。子どもたちは真似します。模倣学習ですもん。「悪かった」と認めることもせず、言い訳ばかりをし、陰でいじめや悪口を言い、書き込み、物事を損得勘定や自分の感情で決めて行動していく。特に、経済的栄達というものに対しての欲は一体何なのだ?と、私などは思うのです。ええ、口が貧乏で、おしゃれに興味もなく、モノを持ちたがらず、その日暮らしを不安とも思わないやつですから(笑)。私は、保身しなければならぬものは、この身ひとつで、その頭の中に物事を詰め込んでいるので、火事や一大事で逃げ出すときにも、ネコたちと母だけが確保できればいい。私の生涯や存在そのものは、他の人にとっては一笑に伏せるくらいの陳腐なものです。守るべきものは、私ひとりがわかっていればよく、私を理解しようとする人だけに理解してもらえればよし。

パワーゲームにどうも積極的に乗り出す人々の気持ちがわからぬまま、保身について書いてきましたが、どうもケーススタディも使わぬまま、これでとりあえず幕引きです。どこに焦点を絞ろうか、考え続けていたのですが、どうも実感がないままに終わってしまいましたが、また書けると、自分を鼓舞することにして、長くなったシリーズを綴じます。

 

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