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元来の祈りと呪詛になってしまう願い

自分に対しても他者に対しても、祈る行為願う行為というのは悪くはないと思うのだけれども、「過ぎたるは及ばざるがごとし」の落とし穴になってしまうことは、往々にしてあるので、最近は難しいなぁと感じているところです。

祈り: 1 神や仏に請い願う。神仏に祈願する。「家内安全を―・る」「―・るようなまなざし」

2 心から望む。願う。「成功を―・る」「無事を―・る」

呪詛: 1 恨みや憎しみを抱いている人に災いが起こるように神仏に祈る。また、災難がふりかかったり、失敗したりするように願う。「恋仇がたきを―・う」「―・われた運命」

2 強く恨む。「世を―・う」

私の父方の実家が神道の神主を36代もやっているそうで(以前23代めと言ったら叔母に訂正された)、私は子どもの頃から、祈ることは請い願うこととは示されてこなかったせいなのか、他力本願を極端に嫌います。

祈りの本質とは、やはり上記のような他力本願=神の力を希うことに思えるのだけれども、宗教家たちは、それは是としないのかしら?もはや自分の力によってはどうすることもできない運命の転換点が迫ってくるのを覚悟するような場面において、その「どうすることもできないこと」を、何らかの超越的な力によって「どうにかしてもらおう」と、アテにするしかチョイスがないと認めることのような気がしてしまうのです。

たとえば、私がこの先ガンになったとして、死は訪れることが必然であることはすでに受け容れているのに、その時期について、不平を言うべきなのか?祈るほうがいいのか?過ぎることを求めると、呪いになるんじゃないかと思えたりします。よく言われる「人を呪わば穴ふたつ」だということは、然りじゃないですか?であれば、自分が無傷だったり、罪がないままだったりはしない、というのが私の価値観なので、やはり過ぎることを求めたり、神や仏にその場で頼ったりはしたくはないのです。静かに受け容れて、時代の最先端のキリも見ていきたいと思うのです。医学がいくら発達していたとしても、どこまでであればやっても美しさは掠れないが、そこまでやってしまうと、執着がひどい、というのはやりたくないんだな・・・。

なので、Eron Maskやその他のお金持ちを見ていて思うのは、「もういいんじゃない?」という天井を突き抜けようとする人々のハンパなさ・・・。美しいことに対しての抜け感はいいとしても、なんだかそれで健康を無駄にしたり、愛する人を泣かせたり、時間を消耗しすぎたり、というのは違う気がする・・・。

みなさまはいかがお考えでしょう?

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