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児童虐待についてもう一考察

02/22/2007 にアップした文章です。

 

児童虐待の件数が、調査を始めた1999年以来、最高数をつけたという報道があって、なんだか呆れたというのが実感。そもそも、なんで、統計を取り始めたのが、1999年なんだよ・・・。わずか8年前なんだよ・・・。警察庁だけではなく、公的機関のやることは、どうしてこうも後手後手に廻るわけなの?誰でもいいから、真剣に取り組んで着手していれば、救われた生命もあるし、受けなかった傷もハンパな数ではなかったことだろうと思うのよ。まぁ、これは後の祭り的発言なので、あまり声を大にして言うのは、潔くないので、やめておきます。

西さんとよく話すのが、「今に始まったことじゃーねーよ現象」です。タダ単に、人々に露出されるようになって、取りざたされるようになって、やっと浸透する概念やら現象やらはたくさんあります。それがどうも哀しい。人々の『無関心』が悲しいわけです。当事者にならなきゃどうでもいいじゃん的態度が哀しい。認知症だって、虐待だって、デートレイプだって、輪姦だって、詐欺だって、虐待だって、何だって昔からあったのです。ただ、人々の意識に上がるようになったのが最近だということです。

無関心:気にかけないこと。興味を示さないこと。また、そのさま。

私のように、何でも目についてしまい、何でも興味を持ってしまい、憂いばかりが蓄積されるのは、「さみしい生き方だ」などと評されることもあるのですが、がゆえに、損得勘定でいけば、損が多いとみなされてしまうことがあるのですが、私はこう考えます。自分が「人類の英知」から受けた恩恵は、計り知れないものがある。生きている人々に受けた恩義にもまた、計り知れないものがある。それを、社会還元していこうという累積が少なくなればなるほど、未来は萎んでゆく。長い目で物事を見てゆくのは、インスタントに結果が出ないがゆえに、辛抱を強いられることですが、それだけ花実が咲いたらでっかいし、美しいのです。

読み終わってしまった『樅ノ木は残った』ですが、アレも、「自分ひとりが歴史上悪者になろうが、味方のすべてを欺いてまでもお家を守る』という堅い信念の基に成り立つ話です。伊達騒動については、興味のない人は興味はまったくないだろうけれども、お家騒動そのものではなく、「人としての在り方」については学びの多いものだと思います。そういった題材の短編もあります。『晩秋』が典型的なものです。

児童虐待など、神代の昔からありました。特に、子どもであろうが、「労働の手」としての重荷を背負ってきた、文字通りの「生き延びるためには何でもやった時代」には、世界各国で、子どもが子どもらしく生きていけない環境があったわけです。日本であっても、わずか60年前後では、戦後の焼け野原の中、こまっしゃくれたような子どものほうが、生き延びる率は高かった。アメリカでも同じです。

子どもは、昔、牛や馬のように殴られながら仕事をさせられてきたこともあったのです。だから、カルピスマンガ劇場では、あんなに泣ける題材もあったわけです。私が、旧きよき時代を振り返るために、山本周五郎や鬼平犯科帳を読み続けるのもそんな懐古主義ちっくなところに、引き寄せられるところがあるのかもしれません。私も、また、「働かねば食わせる飯はない」と肝に銘じさせられて育ったこともあり、「お手伝い」ではない「労働」は、確実に存在していました。子どもを産み増やすのは、最初のうちは「邪魔」「養う口がひとつ増える」実情があったものの、歳月が過ぎれば立派な労働力となったことは、前にエッセイに書いた、長塚節の『土』に詳しく、細かく書いてあります>「ただ働くしかない人々」参照。

が、しかし、私は児童虐待などあっていいはずがない!と考えています。それが人類の進化の姿であってほしいし、技術革新を経た現在、教育や福祉問題にも心が砕ける現在、子どもをいじめていいわけがない。さも説得できるように、子どもは叩かねばならない、動物と同じだから言うことを聞かせるには暴力をやむをえないという大人がいますが、私は断固反対です。極端な慣習の変化は、もちろん過渡期にはそぐわないものではありましょうが、躾や愛という名の下に、感情で暴力や放置などの虐待をしているケースのほうが、ずっとずっと多い。そりゃ、もちろん、本当の躾と愛のために体罰を使う親や大人がちゃんと存在することは否定しません。

最も体裁のいいのが、「人の痛みがわからないからいけないんだ。ロクな大人にならない。痛みがわかるためには叩かれてみなければならない」というもの。痛みの本質を穿き違えているようだ・・・。そのままそう言い張る人たちには言いたい;世界中で飢えも止まず、戦争が終わらないのに、あなたたちは何をしているのですか?痛みがわかっているなら、何かしましょうよ、と。あなたたちはロクな大人なのですか?

痛み:(1)(病・傷などによる)体の苦しさ。《痛》 (2)精神的苦痛。悩み。悲しみ。(3)腐敗。《傷》(4)破損。《傷》

痛みには、2種類あり、簡単なほうが物理的感覚で与える痛み。これが精神的苦痛に直結するかどうかは、脳の発達によりますし、その個体の成長度合いにもよります。記憶に残らない軽度の痛みを繰り返すことが本当に有効なのか?記憶に残るのはいつからなのか?精神的痛みをどの程度理解して発言しているのか?どうもわからない支離滅裂な論理が多い。

ペインクリニックという分野がやっと開けてきたところで、素人が寄って集って痛みに関して、一家言持つのかい・・・、と私などは思えるのです。痛みを表現するのに、ハナゲという単位が採用されたのはつい数年前のことです。心理学にしたって、まだ100数十年ほどしか経っておらず、論理性に欠ける証拠をクダクダと並べられても、まったく説得されない。

何のために、どうして、わざと、痛みを与えるのか?

そうでなくとも、生きていくということは、進化の観点からは戦いです。はっきり言えば、おもしろいことや楽しいこと以上に、つらいことや悲しいことのほうが多い。だからこそ、おもしろいことや楽しいことが光り、かけがえのないものになる。そうであれば、子どもたちに対峙するには、「言ってわかる学習」と「体験する学習」の差くらいはよく理解してから、区別してほしいところです。

「大人だっていろいろあんのよ!」と感情的になっていないという嘘を言い切りながら、叩く。計画的に、機械的に子どもに体罰を与えている冷静な人は、私はまだ見たことがありません。いたら教えてください。お願いします。軍隊式の腕立て伏せやマラソンなどを課す場合、殴る蹴るではないので、まぁ、まだましか、と思ったことはありますが、竹刀で叩いたり、素手で殴ったり、「手とかお尻なら」と叩くのは、自分の成長度を示しているも同義です。それらの理由づけは、「行為のあと」から言い訳したものであり、その場では感情が先行していることすら、認められない人が、体罰賛成を唱えるものだと、私はみなしています。

体罰反対は唱えますが、親を責めるものではありません。「不完全なままの自分が、子どもに伝えられるものは何なのか」を謙虚に考えているならば、理路整然に聴こえるだけの言い訳を、これ以上重ねる必要はないと思うのです。あくまで、体罰賛成を言い張る人がいたら、要注意です。

 

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