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年上を敬う気持ち(2)

うーん、一日経ってやはり混乱が混乱を招いたような文章であったか?と反省(爆)。などと考えているあいだに、西さんの新年会になぜか途中参加し、みごとにニッポン的会社の流れやら、「年上を敬う習慣」=力の誇示という構図が与える弊害を垣間見てしまいました♪しかし、なぜ西さんは飛行機から降りて6時間後にはもう宴会をやっているんだ??

封建時代の名残ってまだまだ私たち日本人の血脈に継承されているみたいですな…。「一度は社長になって威張りたい」って願望があるっていうビジネスマンがたくさん実在するとは、私にとってけっこうな裏切りだったかもしれません←そこですんなり「じゃ、独立すればぁ?」と微笑みつつ薦めてみるのですが、小さい会社ではなく億の取り引きができる会社がいいらしいぞ…。パワーゲームはそうやって続いていくのであるか?

敬うことに何ら異論はありません。ただ「特定の相手を敬う」はちと違う…。孔子が説いた道徳がそういうもんだったと読み取るのは私テキにはズレていると思います。「条件付きの尊重・尊敬」を横行させることを道徳の目的としたのでしょうか?私はそうは思わなーい!

私は幼い頃から「社会的役割」に伴う力に疑問を感じ、4歳のときには「おねえちゃん」であることを拒否したのですが、今でも年を重ねる=必ずその時間の経過分だけ尊ぶに値する人格や行動を発する規範が備わるはず、という推論は成り立たないと思っています。年を食うだけ食っていても尊敬に値しない言動をしまくる人はいます。反対に若い人でも私に延髄蹴りの衝撃をくらわすほどの「うわぁ!尊敬ぃぃ!」をもたらす人はいます。

昨日、本能についてこだわりすぎたのですが、100万歩譲って「人間には道徳心というDNAが入っている」としてみても、そのDNAが年月という時間という要因のみが与えた成熟・発展を遂げる、と考えるのはあまりにナイーブです。身体的な機能についてでさえ「個人差」があるのに、DNAが支配できる範疇が目減りした精神的な部分を、年月に期待するのはあまりにナイーブでしょう。

どんなにいいDNAを持ち得て生まれてきてもそれが表象するまでの発展を遂げなければ何もならないことはたやすく理解できることです。せっかく自己免疫性があるのに、やれ風邪をひいた・下痢をした・アタマが痛いと薬を安易に飲むことで、免疫を活動させないで外界(薬物)に頼るのと同じことです。もっと簡単な比喩を使えば、筋力があるのに歩かないで手を引いてもらったり車椅子に乗ったりばかりしていれば、その筋力は衰える一方でしょう(マイクロに見て小さいスケールで人間の体力はどんどん退化してると思う>歩くという動作は20年前に比べると日々の生活のなかでものすごく減ってる…)。

けれども、「道徳を持ちたい」という欲求は段階的に発展し、そこまでたどりつけないで死んでいく人間もたくさんいます。気づいていてもそれに手をつけずに雑多な毎日を過ごす人間もたくさんいます。「一旦は考えたのだからこれでよし。日々に反映しているだろう」と時間と環境に合わせることを意識的にやらずにシェイプしていくことをやめてしまった人間もたくさんいます。本能であれば、「不思議なDrive(動力・推進力・心理学では特に基本的衝動)」に駆られて「どうしてもしてしまう」に移行していくのですが、ばらつきがあるのは段階的発展があるせいで、本能に根ざした部分がゼロでないにしてもごくごく微量であるからです←ゆえに「道徳心を欲求すること」というのは本能ではなく、もっと大きなカテゴリーで、「社会的認知を欲する」というのが本能になります>第三次、場合によっては第四次欲求。

その「社会的認知を欲する」という価値観は多様であっていいわけで、孔子が唱えた「礼を尽くし、仁(忠と恕)を重んじる」というのは年齢や財産の多さや学歴について言っていたわけではないでしょう。ある人は「教科書に名前を残したい」かもしれないし、ある人は「子どもを育て継承してもらうものを托す」かもしれないし、ある人は「文字に表わす」かもしれないし、ある人は「版画彫塑」、ある人は「絵画」、ある人は「音楽」「料理」「服飾」なんかで、他人と純粋にシェアすることかもしれないです。その他人がたったひとりでもかまわない人もいれば、地球の表面にいるなるべく多くの人からの認知が欲しい人もいるでしょう。友達の質について追い求める人もいれば、数について追い求める人もいて、バラエティがあっていいではないですか♪そこでうんと悶絶するわけです。内容については個人で闘うしかない領域です。

体系的なことを説明しているの、わかってもらえるだろうか?>「社会的認知を欲する」というのは欲求という本能の動機になるものの発展段階。しかし、その内容についてはDNAに組み込まれているわけでなく、コントロールは自己にある。この社会性を身につけるというなかに、「礼を尽くし、仁(忠と恕)を重んじる」」という側面があります(孔子はこれが人間つきあいの基本であると考えていた)。

そこを超えて第五次の「自己実現の欲求」になると、多くの他人の価値観からも解放されていくわけです。第三次と第四次欲求が充たされてそれらを維持しつつ、個人の理想を実現したいという欲求を死ぬまで探求していくことは可能です。第四次欲求を充たさないで自己実現のみ行うことは有り得ないとも言えるかもしれません(もちろん何にでも例外はあります)。自分が医者になりたい、弁護士になりたい、金持ちになりたい、きれいになりたい、という動機を考えてみるとわかります。それによってついてくる名声が欲しいうちは、第三次(社会的)第四次欲求(価値・判断・尊重)から抜けきれていないし、将来の財政についての安全性だけを考えているならば第二次欲求(存在の安全性)から抜けきれていないし、たくさんの異性からもてるからという動機ならば第一次欲求の段階であること、わかるでしょうか?段階が上だから尊いということもないし、できることならその1から5まですべて網羅しているのが私個人は好きです。

そんななか、「一応あの人は年上だから敬意を払っておけば安心」というのは、どうなんでしょ?私は盲目に過ぎるんじゃないかと考えています。同じことが「上司だから」「夫だから」「親だから」などなどに顕れていることがやたらめったら多いなぁ、と。

が、ゆえに、私は結局、ケーススタディ(その状況・個人・時間軸)でしか物事は見られないと思っています。同じだけの尊重なら私は生命体にはなべて等しくあり、それに条件はありません。そのあとで私のレンズから見た価値観を基にエクストらの「敬う」があるかどうかを決めます。米搗きバッタみたいにおじぎばっかりしてることが敬うことだとも思っていないし、敬語をきちんと四六時中使うことが敬うという気持ちの表象であるとも考えません。姥捨て山に棄てられてしまうような行いをした老人はたくさんいるかもしれません(私はまだナマミのそういった老人に遭遇しおつきあいをしたことがありませんが…。Thank God!神様ありがと♪)。それは個人が自分の人生にどれくらい本気で取り組んだかということで、誰も責められないことでしょう。私がもしも姥捨て山に棄てられるばばぁになっても、自分が正しいと信じたことはやらざるを得ないのでそれでもかまわないと思います。覚悟はできてるさっ♪

いつのまにか30代半ばを過ぎてしまいましたが、べつだん他人から敬ってほしいとも思いませんし、何があってもそんなことは要求しません。ただ生命体としての尊重だけは守ってほしいと願います。私がここにこのように存在していることを丸ごと否定するようなことだけがなければ、私には何の不平不満もありません。遠慮なく何でもばしばし言ってくれるコミュニケーションのほうがありがたいです>サイキックじゃないんだから読み取れ、っていうのはかなりつらい…。(-_-;)

私が年上の人を足蹴りにしているところを不愉快だと注進してくださる人はこれまでにも多々おりましたが、長い時間をかけて理解してもらうことに成功しています。ただ途中で縁を切られた場合にはそれももう実現しないけど…。私が年上ならば誰でも敬う、というのを避けるのはまぁこういう理由です←長くてよくわからなかったか?でも言いたいことは何となく伝わったか?(・・;)

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