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強さの一例

私は自分は死ぬまで「ああ、上品な人ね♪」と言われることはないと思っています。それをほぼ確信のように実感したのは、映画 Jackie Brown(邦題も同じ)を見たときです。今宵もなぜかまた5回めなんだけれども、またまた見入ってしまいました。脚本・監督はPulp Fiction(邦題もパルプフィクション)のQuentin Tallantino(クェンティン・タランティーノ)です。

老いることは誰しも一度くらいは「恐怖」を感じるのではないか?と思います。それと相反するように「早く円熟したい」とも一度くらいは思ったことがあると思います。私は小さい頃から「早く30代になりたい♪」と思っていて、今、その間っ最中にいます。憂いを横に置いておきつつ体力と気力があるときには対峙し、たまにはトントンと叩かれるドアの音に耳を澄ませて開いてみています。けれども老いることへの恐怖は、私自身のなかにはありません。今まで培ってきたものがよりよく反映されながら、どんどんアタマと心が使えればいいなぁという希望があります。

暗い部分で言えば体力が落ちたときに、社会の冷たさや老人に対する配慮のなさなどにぶつかって、悪循環に陥ってしまったら?という仮想はしますが、きっと大丈夫でしょう。私が今まで乗り越えてひとつひとつ対処してきた問題と大筋が似ていれば、解決は可能です。付加があれば新しくまた学習していきます。それには健康でいなくちゃなとひしひし感じます。

Jackieは40を過ぎて年収16000ドル(200万いきません)のフライトアテンダントです。黒人でゴージャスな女性ですが、大手エアラインからどんどん落ちてきました。生きるために犯罪に荷担します。だんなも子どももいませんし、ボーイフレンドもいません。蓄えもなければ、資格も持っていません。よくない状況から抜け出るため、彼女がどうやって自分のアタマと心を使ったのか、というストーリーですが、喜怒哀楽全部ひっくるめて、問題解決したあとのエンディングの彼女はとてもとてもきれいです。

お決まりですが、アメリカで黒人に生まれてしまうと社会から無意識に押し付けられるラベル貼りがあります。いくら抵抗しても大勢の力に個は非力なあれです。日本にもありますが、質や段階やいろいろがちょっと違います。この映画でも、「NYの110th Street(110番街と訳すんだろな)を渡ると、そこにはPimp(売春婦からピンはねするぽん引き)が居て弱い女たちから金を巻き上げる」という歌がエンディングに流れます。そうやって闘いながら道を切り開いてきたんだろうなぁと思うとやたら共感して、涙がこぼれてきます。

けれども彼女は強いのです。すごいゴージャスなスーツを身につけても崩れた感じはぬぐえないのだけれども、きれいで強いのです。個人によって「きれい」の定義は違うでしょうが、私にとってはとてもきれいです。ストーリー前半はただの疲労感の固まりです。投げやりで言葉使いが悪く、自分が犯している犯罪に対して悪びれていない開き直りとあきらめがあります。「他に私はどんなふうに生きてくればよかったのよ?」という種類のものです。

その彼女が追い込まれ、一見すると警察に捕まるか、あるいは組んでいる犯罪者に口封じに殺されるか、という二者択一のところを、彼女は彼女にしかできないであろうもう一つの選択をします。どちらからも自由で居て、力を得て自分の道を切り拓くわけです。

決めるまでの潔さ、生きることへの執着には、上品さは感じられません。けれども、計画を進めるうちに彼女はどんどんきれいに強くなっていきます。見ている者の錯覚なのか、あるいは製作者の意図に乗っかっているのか?けれども、実際にこのような下地とこのような性格や魂があれば、これはあながち嘘ばっかりなストーリーではなく、きっとこういう人物は実在する、そういう人への応援歌みたいな映画なんだろうなぁ、と思わされます。

実際、私は自分に重ねて見てしまいました☆

演出や役者はもちろんうまいですよ。でもそれだけじゃないのは、これがありがちだろうストーリーだからです。実際にあんな窮地から逃れられるのか?と疑問を抱く人はたくさんいるかもしれません。でも私テキにはこの結末もありがちです。アメリカを見れば、社会や人々に踏みつけられた黒人女性は掃いて棄てるほど居ます。けれども、掃き棄てられなかった黒人女性もまた山ほどいます。

その分かれ道はどこなんでしょう?私も日本では底辺と言われた生活のなかで生まれ育ちました。条件や環境はとても悪かったし、子どもの頃からたくさん比較されて哀しい想いを何度もしました。親に悪態をついたこともあったけれど、「親のない人に比べればまし」なんていう比較に比較の論理で返すような哀しみ比べはしたことがありません。そんなのひとりひとり違うように感じることは、わかっていたことだからです。

幼稚園のとき、砂場で十二支を話し始めるおともだちがいました。「私ねぇ、うさぎ年なんだって。パパが言ってた」というやよいちゃんに、自分の干支を知っている子たちは「うさぎ」か「たつ」と答えました。そして無知であった私は、家に帰ってこの疑問を解くことにしました。父がねずみで母がとらで弟がへびで私がうさぎ…。これは大混乱でした。説明してくれたのですが、どうやら生まれた年で決められてしまうので、お誕生日が1月から3月の子はたつ年らしい、ということがわかり、生まれる月とかけっこの速さや、お遊戯のうまさが関係あるのか、などなどを、またその後もおともだちと砂場でとりとめもなく話すわけです。でも誰も、本当に誰ひとりとして、「うさぎ年の4月生まれのおともだちがいちばん」とは言いませんでした。「たつ年の3月生まれのおともだちがびり」とも言いませんでした。

ここまでわかるまでに年長組も卒業して、みんなとお別れすることになりましたが、私たちは幼稚園のときには、「みんながお遊戯がじょうず」「みんながかけっこが速い」という結論でいつも丸く収まっていました。運動会で順位が決められても、「OOちゃんは運動会の前にヤクルトを飲んだからだぁ!」とか「XXくんは一生懸命登園のときに、電信柱1個ごと走って練習したんだよ」と、順位という結果に対しての執着はそうありませんでした。もう少し大きくなって、努力もしないのにかけっこが遅いと嘆いていたり、成長には子どもそれぞれ違いがあるのに嘆いている子がいて、「他人が悪い。天気が悪い。先生が悪い。運動場が悪い」と自分には何の非がないことにして、他にだけ非があると言っている子が増えていきました。

Jackieはどうだったんでしょう?元だんなが悪い男だったというせりふはありましたね。けれどもその男と結婚したのは自分だったと自嘲していました。運び屋になったのも自分のせいだと事情聴取で言いました。やっぱりみんな知っているはずです。どんなことにも他人よりも自分にいちばん原因があることを。

他人よりも強くなることなんか、彼女はめざしていませんでした。そこのところははっきりしています。「こんな状態のままで老いることは怖い」という動機は、世間の怖さに立ち向かっていたわけではなく、流されてきて自分を連続して見失ってきたことへの雑感なのかもしれません。そのあと、Jackieが自分でできることをしたことに、私は大きな生命力の強さを感じ、それこそが私の感じるきれいさであるな、と思ったのですね。愚痴ることよりも、世間を恨むよりも、生い立ちを嘆くよりも、事実を、淡々と憂いを含み述べているだけ、という情景でした。今必要なことを短期間で達成したJackieはとてもきれいでした。

もちろん強くなることは哀しいことを振り切ったように見えることもあるのかもしれません。けれどもそんなことはありません。全部内包されてそこに残るだけです。石灰化するっていうのかな。強くなることは欠点を克服したように見えることもあるのかもしれません。けれどもなだめているだけのこともあるし、そのなだめている最中に繰り返し癖にして克服しきろうという最中なのかもしれません。少なくとも私はそうで、コンスタントに自分を叱咤しないと何もできません。

そして私はJackieのような強さを得られるのであれば老いることなんか怖くないぞ、と思いました。

 

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