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懐古主義に陥る

05/28/2008にアップした文章です。

 

ここのところ、ありがたみが薄くなっている傾向がなきにしもあらず。私は、これまで自分がパイロットをやった時期も、最新学界論文にアクセスできても、やはり「これはオマケなんだ・・・」と思うことを忘れることはありませんでした。昨日書いた携帯にしてもそうで、携帯がなくとも生きていけるMannerismや立ち居振る舞いを身につけた上で、その恩恵に預かるという基本態度は変わっていません。PCおよびインターネットも早期に導入しましたが、それへの態度も同様です。そこで、「昔はよかった・・・」と短絡的に考えるのも、ちょっとジャンプしすぎではあるのですが、私にもやはりそういった傾向はあり、子どもの頃のことはやたらとなつかしく思うのです。

 

懐古:昔のことをなつかしく思うこと。懐旧。

昔:(1)現在から時間的にへだたった過去の一時点または一時期。いつとは特定できないが、回想の対象となる過去のある時。(2)過去の10年間を一単位としていう語。(3)(単に)以前。現在と対比してとらえた過去のある時。(4)今は亡き人。故人。(5)前の世。前世。

なつかしい:(1)昔のことが思い出されて、心がひかれる。(2)久しぶりに見たり会ったりして、昔のことが思い出される状態だ。(3)過去のことが思い出されて、いつまでも離れたくない。したわしい。(4)心がひかれて手放したくない。かわいらしい。

 

10代の頃は、昔という範囲がやたらと狭かったのですが、それでも新しい単語である「昔」をやたらと使いたがったらしく、叔父や叔母などから「あんた、何年生きてると思ってんの!」と笑われた記憶があります。それでも、緩やかな時間が流れていた子どもにとっては、昔を思い出すことも多く、いろいろなことができるようになっていたことに驚異的な感慨を覚えたり、勇気が増えたことに対しても誇りを感じたり(ほら、注射とか検診を同級生の前でやったりしたよね・・・)、少ないバケーションの機会を振り返ったりと、頭の中はたいへんに忙しかったのです。

 

そして、10年一昔というように、10年単位で振り返れる時間が過ぎたことを認識すると、もっともっと昔に対する懐かしみは増えていくわけです(笑)。私の場合は、「日本-アメリカ」と時間を区切れる大きなドラマチャンスもあったので、振り返りは建設的に行われたかもしれません。うーん、いや、非建設的に行う場合だってあるか・・・(汗)。

 

振り返る:(1)体をねじるようにして後ろを見る。(2)過去の事を考える。また、回顧する。

 

うん、このように、振り返るというのは、日常的な体位ではなく、エクストラの情熱や意識や動きを要するはずなのですが、どうしてか、私という個体にとっては、過去の統計を引きずり出してくることや、過去を考えることはそれほど苦や努力を要する行為ではないらしい。それを悟ったのは、10代の終わり頃で、他の人よりもずっと記憶力がよく、かなり頭の引き出しが整理されていることに気づいたわけです。

 

インターネットが便利なのは、その自分の記憶をチェックできることで、30代に突入する前は、それほど自分の記憶の正確性に自信がなかったのですが、今、オンラインに山ほどの情報がある昨今、自分の記憶力というのは、かなり平均を凌いでいるということがわかる・・・。正答率が高いのよ・・・。自分がこうしているときに、世の中ではあれがあったじゃないか・・・というようなことへの正答率。ただし、私は貧乏に育ったので、流行モノについては正答率は高くなく、TVも大して見ず流行にも気づけないやつですらわかるほどの大流行に関してだけは、よく繋がる。ましてや、日本には18年半の不在があり、そのあいだの1年だけの記憶があるわけです。あとは、里帰りをしたときくらいなので、大した記憶はなく・・・。ネットができてからは、大きな事件だけは入るようにはなるのですが、気があるかないかでその記憶の定着度も大いに違ってきます。

 

というのを前提にして、私は過去を懐かしむ体質が過ぎるのか?

 

実際は、よく思い出すことは思い出すし、愛おしいという気持ちも大いにありますが、特にあの頃になど戻りたくもなく(爆)。ネットがない時代なんかには戻りたくないよっ!と思うのです・・・。さっぱりきっぱりだな(爆)。PC依存症を克服してからはや10年。最初の2年くらいは本当に中毒状態でしたが、やっと日常生活の優先順位をしっかり遵守できるようになり、ゲンジツとバーチャルの錯覚にも陥らなくなり、こんなに便利に使えるものを、いまさら手放したくはなく・・・。昔は、図書館で半日掛けなければわからなかったことが、今じゃ、ネットで15分から30分でわかってしまうという便利さ。しかも、英語も日本語もアクセスできるので、図書館のぼろいところに行くよりもずっと効率的なのだ。

 

国際電話だって、1988年時点では、最初の1分間が360円で、1分加算されるごとに200円くらいは確実に払っていたのです。今じゃ、スカイプで無料だし、安いカード式のものだと、1分2円くらいでアメリカと話せたりします。すごい進歩である。ありがたやありがたや・・・。

 

それでも、私はネットがなくとも生きていける素地があることを、どこかで誇りに思っているわけです。昨日の続きですが、調べ物ができない人々が、いきなりネットから入ることによって、どれだけ能力の磨きの機会を逸しているのか?を考えると、相当に果てしないのだろうと思うのです。数値化することは容易ではないですが、不可能ではありません。かなりな差がそこには出てくると思うのです。

 

校長センセは、コメント欄に無線のことを書いておられましたが、無線の基本的仕組みを知らないヒトが、携帯電話の恩恵を受けていることで、携帯電話がないと待ち合わせでお友だちに会えなかったり、仕事の進捗が左右されたりすることがある、という事実は、問題視したほうがいいのでしょう。テクノロジーの進化は、あくまで「オマケ」なのだ。

 

たとえば、みんなで遭難したときに、誰が生き延びるのか?という、ゲームではないサバイバル状況があったときに、きっと何もできないヒトは先に死んでいくのでしょう。もちろん、優しい人がいて、食べ物や水を分けてあげたり、背負って歩いてくれることもあるのでしょうが、その人の体力を消耗しすぎて、サバイバルチャンスを減らすのは愚かです・・・。みんながRamboじゃないんだから、Ramboは生かしておかないとね・・・(やたらと現実的だが・・・)。

 

そういう理由では、私は懐古主義に陥り、昔はよかったなぁと思うことはあります。特に、カミナリが落ちそうな夕立は、もうこのアスファルトが多い都会にはあまり来ませんし、水のせせらぎの音などめったに聴けませんしね。ただ、頭の中に貯め込んであるので、いつでも引き出すことができることにはとても感謝しています。が、もうあの貧乏には戻りたくもないし、あの苦労をしなくていいならしたくもないですね・・・。

 

何もできないヒトがどうしてテクノロジーの負の面を考えずに、便利に使っているのか?というのは、よく感じますし、気の毒には思います。懐古しても、私はOK。でも、あなたはどうなの?と思うことはよくあります。夕べの授業でも、「携帯を小中学生に持たせないほうがよい」というのは、20年前から誰かが言っていたことだろう、と、多くの生徒さんが笑っていました。そうだよねぇ・・・。でももうひっくり返してゼロから始めることなどできるわけもなく・・・。懐古主義ではなさそうな私ではありますが、何もなくても楽しくやっていく自信があることは、たびたび確認しています。うん、大丈夫!と思いつつ・・・。

 

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