一言で簡単に言える問題ではないのですが、「考えることを怠け、言葉と心を尽くしてコミュニケーションを取ることが面倒くさいから」じゃないでしょうかね・・・。
私は子どもの頃から、殴られまくりながら育ってきました。それに対しての恨みもつらみも何も残してきていません。なぜならば、私にはもう結論が出ており、父や母の教育や教養レベルを、あのとき誰も気にしてくれていなかったし、近所でも彼らが知り合っている大人や社会でも、体罰を容認していた風潮だったから、それに対して、私の両親が抗うことができなかったことは、とても理解できるからです。
しかも、私ごときが両親に対して、「許す・許さない」ということなどあるはずもなく、育ててもらった感謝に支えられ、どのような人間で在りたいのかを日々試され、今もここにいることそのものに僥倖を感じています。
とはいえ、私個人は、12歳のときからずっと体罰反対です。ずっと言い続けてきましたし、今後も誰が相手でも言い続けますね・・・。実の弟と疎遠になっているのも、このへんの見解の違いが、基本的な世界観や価値観の違いだと考えるからです。
これらの記事を読んでわかるように、江戸時代から第一次世界大戦での軍国主義になるまでは、記録上、体罰はほぼなかったことがわかります。
軍の中での慣習が市井の人々にまで流布したのは、なぜなのか?
体育の授業やスポーツ系の部活動で、きっと体罰は「便利すぎるツール」だったのでしょうね。私が子どもの頃の昭和も、スポ根モノが流行するに連れ、どんどんと暴力が表面化してきました。中学になる頃には、「学校内暴力」→「つっぱり流行」→「いじめ」とどんどんエスカレートしていきます。
その大人たちが体罰が生活にあることを日常とし、子育てをし、いじめすら日常になり、避けられない環境を作り続け、「やめよう!」と叫び続けている図に、非常に違和感を覚えているワタクシです。(・・;)
少なくとも、学校内暴力・つっぱり流行くらいまでは、「裏表」はなかったんですよね・・・。なぜ、これほどまでに「裏表」ができてしまったのか?のほうが根本的・本質的問題なのかもしれません。
体罰を裏にしてしまうようなことがないように!という最近の風潮は、是ではあります。が、なぜダメなのか?について、みなさんわかっているのかなぁと、少し不思議は残ります。
そうした意味でも、「社会のスタンダード・基準」に即しているかいないか、という判断で、人を見たり査定したりする社会を変えて、本当の意味での「多様性」を勝ち獲るべきだと、私などは本気で考えています。欧米人であっても、軍隊はやっぱり厳しいですよ。体罰はあります。殴る蹴るではなく、スポ根のようなその場で腕立て伏せとかそういうやつですけど。でも、その前に「本人がその文化を選択したかどうか」という、棲み分け・細かい分離分割があって、その多様性の中から、個人が好きなもの、自分に合うもの、必要なものを選べ手いるかどうか?が問われていくのだろうと思います。
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