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明日のための元気

04/22/2007 にアップした文章です。

 

今日を精一杯やっていると、明日のことをプランする暇(いとま)など持てるゆとりがあまりなくなってしまい、かなりくたくたになって、布団に倒れこみ、最後の数ページを読みつつ、いつしか眠ってしまうことが多いのです。私のハイパーさは、先天性のものなので、何をどうしてもここらあたりまでしか治すことができなかったのですが、今後、これ以上を望むことは可能ではあるのですが、薬物はどうしても非常手段としてしか用いりたくはなく、疾病の長所が殺がれるのであれば、行動療法などもここらが限度なのだろうな、と、今の中途結論です。おかげさまで、うまくつきあえば、健常者となんら変わりなく、ただ、「性格がえげつない、押しの強いところがある」だとか、「人より元気でうっとうしい」などの評価をいただくだけで、行動範囲やタイミングや相手を見極める術さえ身につければ、私はこのハイパーさをフルに使って生きていくことができます。が、明日のための元気、というのは、私にもやはり必要だ・・・。

明日を楽しみに生きるということは、支えがあるということ。明日起きて何かを開始するための甲斐があるような望みがあるということ。

支える:(1)力を加えて、物が倒れたり落ちたりしないように押さえたりつっぱったりする。(2)社会・集団を維持する。ある状態をもちこたえる。(3)援助する。支援する。(4)攻撃などを防ぎ止める。(5)人や物が通ろうとするのを妨げる。さえぎる。
甲斐:その行為に値するだけのしるし。また、それだけの値打ちや効果。せん。

先だって、コメント欄で、校長センセにお叱りを受けたのが、こんな一文;効率や合理性を求める傾向がいやらしいというのは事実です。それに対して校長センセは、「これには大いに異議有り。 生産性向上や合理化は、人間の知恵ではありませんか(私の大学時代の専攻は経営工学)。」とお返事をしてくださいました。

私の気質・性(さが)を庇ってくださっていることもありますし、大義としての効率や合理性だけではなく、私が含蓄しているところの、「いやらしさ」をご理解いただいた上でのことだとみなしていますが、やはり「そればかり」をやる人間はいやらしいのですよね・・・。

たとえば、理路整然としてばかりいてオマヌケなところをおくびにも出さない人間がいます。私はそれができないので、犯罪者にならずに済んでいるのですが、そんな人間には、私ですら(いや、完全無欠になれないがゆえに?)、愛嬌やかわいげはまったく感じられないです。ただ、人というのは24時間同じ人間や状況に囲まれて生きているわけではないので、自分の見たものがすべてだと勘違いし易く、私はそんな意味を込めて、「(私が)効率や合理性を求める傾向がいやらしい」というのは事実だと申し上げたのですが・・・。知恵がどんなに溢れていようと、才能が卓越していようとも、万人に愛される人間など、古今東西いた例がなく、ある人の目には、効率や合理性は知恵であり、別のある人にはいやらしい事実として捉えられるという、含蓄があったのです。

事実:(1)現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと。(2)〔哲〕 時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。

「おいおい、ここでまた哲学かよ」と、自分に辟易するところもあるのですが、厳密に行きましょう(笑)。この時間空間を限定したときに、やはりある人にとっては、効率や合理性ばかりを追い求める傾向が強いことがいやらしく映るのは事実です。その時間空間を限定することそのものに対しての疑問は、やはり薄い。人間は相当に自己中心的であり、他に対しての正義と自分に対しての正義を捻じ曲げるなど、さまざまな価値観をダブルスタンダード(二重基準)として持っています。

校長センセが、このダブルスタンダードを持たないように物事を見ていらっしゃる、ということのいい例になったことはうれしい限りですが、私は躁うつ病のハイパーさのせいで、たくさんのこうした理不尽に遭遇してきました。が、ここも「私が特別だからといって、他人に強制的なスタンダードの変更をさせるわけにはいかない;それでは理が捻じ曲がる」ということも理解していたので、余計につらかった。逃げぬように立ち向かってきたつもりでいたのだけれども、疲労困憊は頂点に達し、メシの種になる職業を選んだり、恋愛の発展の結婚を考える時期になったり、人々が劇的に大人になる時期になったりした20代を過ぎてから、やはり私は渡米して逃げることになるわけです。それが、そのときの私の能力に見合った「明日のための元気」でした。

「場所が変わって、取り囲む状況が変わって、人々が違った考え方を持ったところに逃げ込めば何とかなるかも」という希望を持つことが、私の精一杯の明日を見出すための元気の源になったのでした。それは大当たりしたので、今笑って話せるのですが、もしもダメであったならば、きっと私の今の主張も大きく変わっていたことでしょう・・・。

誰かが私のためにスタンダードを設けてくれており、それに沿うように生きていかねばならぬ、というのは、ハイパーすぎる私にとっては、日々が拷問のようでした。一度に2・3個以上のことを同時にしていなければ、身体的苦痛を伴う私には、「落ち着きがない子」「物事を真剣に捉えられない子」「いい加減な子」などと、たくさんのラベルが貼られたのです。「自分のスタンダードも他人のスタンダードも同じだけの価値があるよ」という大前提を披露してくれたアメリカ社会には、今でも本当に感謝しています。世界中でおそらく、私がイチバン住みやすいと思える国・環境を実現できる場所だと思っています。高々、他数国しか経験がないので、狭いことを言っているのだという自覚はあるのですが、そのくらいの感謝のでかさはあります。でなければ、死んでいたかもしれない、と思えるからです。

明日のための元気を、誰かに提供することができるようになれるやつになろう!と、いつの頃からか思い始めて、赤ちゃんや犬に道端で会えば、逆に未だにもらっていることに気づきます。自分で自分にご褒美をあげたり、好きなだけ時間を気にしないで読書に没頭したり(とはいえ、それでもTVも同時に聴いていたりするし、何か食べたりもしているのだけれども・・・苦笑)、昨日のように大量に安い消耗品や食品を買い込んだり、お友だちの赤ちゃんを抱かせてもらったり、と、明日のための元気には事欠かないでいられることは、日本に戻ってきても「まだやっていけるな・・・」とニヤリとできるところです。

昨日の夜は、『介助犬ムサシといっしょに学校に行こう!』というドラマを見て、おいおい泣いていましたが、これも今日の元気になった模様・・・。ドラマの中では悲しいことがたくさんあったのだけれども、それでも愛の深さを誰かが体験しているところを見るのは、明日のための元気だなぁ。さらに、太田総理の番組では、「教師の体罰を復活させる」というマニフェストを、プロレスラーの蝶野正洋氏(こういう人だったのか、と改めて確認した次第なのだ…。何度も言うようですが、私は暴力というパワーゲームに参加することそのものに矛盾を感じますので、教師という権威を持った人間に体罰という名の暴力を許可することは断固反対です)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%B6%E9%87%8E%E6%AD%A3%E6%B4%8B が唱えていたのですが、みごと否決だったことに歓んでいました。

というわけで、今日、明日のための元気をぜひぜひ見出してくださいね♪

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