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昔を忘れ去ってしまう人々

Feb 6, 2006  

記憶喪失のお話ではありません。自分がナニモノで、どこから始まってどんな道をたどってきたのか?をすっかり忘れたような、言動をする人々のことです。

私が成金でも好きな人と嫌いな人がいるのは、このせいだったりします。お坊ちゃまでも好きな人と嫌いな人がいるのも、このせいだったりします。専業主婦でも、教授でも、医者でも、弁護士でも、特に現在のステータスとはなんら関係ありません。歩んできた道をないがしろにして、「ん?どうしちゃったの?」という言動をする人々が、私はどうも苦手です。

母はまだ私がパイロットの免許を持っているとか、東大よりもいい大学を出たことを信じていませんが(笑)、それは私の日ごろの言動によるものなのでしょう。母をないがしろにした10代の反省をたっぷりしているので、私は母を大切にしようと毎日意識しています。こまっしゃくれて、若いだけできれいでちやほやされた10代の私は、母にとっていやーな存在であったと思うし、今でも娘でなければつきあいたくはないでしょう(爆)。会社のビジネスディナー(まぁ、ただの飲み会です・・・)には、調布でやるときには漏れなく母がくっついてきます。彼女は外食が大好きで、オーダーすることそのものが本当に芯からしびれるほど好きなのです。何も買うことができなかった、オーダーすることができなかった日々に敵討ちをしているような感じ?(笑)しかも、彼女は食べることが大好きなので、健康を害さない程度にできるだけ好きなものを食べてもらうのが、私の使命のひとつです。この母がいなければ、今の私はできあがらなかったこと、私はひしと毎日感じています。

掲示板やBlogでは、けっこう不思議な人々がたくさんいます。自分が何様なのかはっきり言及せずに、他人ばかりを攻撃する人、社会問題を大雑把に斬る人、自分は愚痴を言ってもよく他人のそれは許さない人。あるいはまったく逆に、自分をたらたら語る人。苦労したことなどをつらそうに語られても、超えてしまった今、何も言えることはなく、「だから何なの?」と思えてしまうことも多々あり。さらに、今現在の苦労を事細かに語られても、最終的に決めていくのは自分であるはずです。あー、やっぱり私って冷たい?(笑)

倖せ自慢をしたり、不幸自慢をしたり、人々はとても忙しいのだなぁ、と、私は相変わらずのヒューマンウォッチングを続けています。善良であることをアピールしたり、社会のために何か貢献しようと大上段に構えたり、ということが、どうもハナについていけませんや。そんなにRighteous(清廉潔白、正しい)ならば、自分が無力だったことのことを踏まえて、他人の成長のスピードにも穏やかな目を持とうよ、と。

私には自分が歩けなくておむつをしていたことが記憶にありません(いや、たまーにこの記憶がある人もいるんだってば・・・)。写真を見せられつつ、母に何度もしつこく語られて、ようやく自分がまったくの無力だったことを、小学校あたりで知るのです。が、それもまだ母への感謝などではなく、生命体の不思議に対する驚きで、母に心から感謝できるようになるのは、アメリカに留学して、サバイバルするのが日々たいへんだなぁ、と思うようになってからです。特に心優しいわけではなかったのですが、毎週2年間以上、両親に手紙を書きました。今じゃ、メールと電話が発達し、切手がいくらなのかもわかりません・・・(汗)。18年前、彼らは国際電話することもできませんでした。私にコンタクトする術は、書きなれない手紙だけだったのです。「外人が出てきたらどうしよう!」と、どんなときにも電話できなかったのよ・・・。それほど大事件はなかったのですが・・・。

儒教では、目上の人を大切にしましょう、と勧めています。が、私はこれをむやみにしていない、と書きました。なぜならば、ある目上の人が意味なく従順に教えに従っているだけで満悦し、それを次世代に残すことは、大した意味を成さないからです。私が母をはじめ、自分の周りの目上のある人々を大切にするのは、自分がナニモノかきちんとわかっており、謙虚で感謝の念が深く、ひとりだけで生きているわけではないことをしっかり知っており、年上だということをひけらかさない場合のみです。子どもの頃に、「きくみも大人になったらわかるよ」と言った人々は、今のところほぼ尊敬などしていません。そんな簡単な言葉は誰にでも言えることです。彼らもまた無力で、社会的連鎖の中に生きてきて、大切なものを継承し、それを大切に胸に抱いて大切な次世代に残しているという認識がなければ、私には尊敬の価値はありませんね・・・。

私もいい歳になりましたが、誰からも尊敬されたくはないです。アーパーで何も考えていない人に、ただ、この歳にしてはしわが少ない、というだけの理由で尊敬されたり、パイロットのライセンスを持っているからと尊敬されたり、いい大学をしかも英語で出たということにすごい!と驚かれたりするのは、私の本質のカケラしか見てもらえてはいないことです。何がどうすごいのか、わかっている人は簡単に尊敬などしませんや。

という理由で、私もわかってもいないくせに、簡単に他人を尊敬しません。尊敬するならば、尊敬する部分をしっかり把握できており、揺らぎがないことを自分で確認したいです。だから、ホリエモンであろうが、そのへんにいる芸能人であろうが、特にすごいとも思わないできたわけです。情報処理するための情報にそもそもブレがあります。その人がどこから始まって、どんな道をたどってきてこういう人間になったのか、わかったほうがずっと醍醐味を味わえます。ダメもいいも、それからの話です。

そこでふと、さらに、同じヒトに生まれたのに、どうやってこの違いができたのか?と、真剣に考えるほうがずっとおもしろみがあります。優劣をつけたり、善悪をつけたりするのではなく、道筋を考えてみる。コレ、とても大切です。

自分はものすごい苦労をしたのだと語る人がたまにいるのですが、昨日のエッセイにも書いた通り、私はつらい思いをしてきたとは、自分ではまったく思っていません。パートナーには一時期、「貧乏だった自慢しないでくれる?」と言われたことがありましたが、それも失言だったと途中で謝ってもらえました。なんで自分がそんなに苦労して、かなりな贅沢もできるようになったのに、他人の成長のスピードをとやかく言うの?と、いつも驚いています。自分ができたんだから、他人にもしろ、ってことなのか?どうして他人のことを放っておけないのか、いつも不思議になります。

私はそういうおばさんたちや先生やその他の人々から、ものすごい圧迫感を受け止めながら大人になり、大人になってからも、その圧迫感から解放されるまで、けっこうなエナジーを費やしました。その人々が、おむつをつけた赤ちゃんだったことを思うと、やはり「あなたって何様?」と思うのです。Freud(フロイト)の大きな功績のひとつに、「ヒトの成長は、結果論から逆に辿ることはできるが、赤ちゃんや子どもを見てその先を予測することは、大いなる幻想で、間違いの元である」という学説をまとめたものがあります。細かい小枝がたくさんついた道筋を、逆に辿ることはできても、まっさらなところに周囲が小枝を描いてその通りに持っていくことなど、独裁者同然の行為です。それを、人々は成長した他人にも小出しでやっているわけです。

私は放置できるんだよねぇ、他人のことは。だって、私も無力だった生命体から始まり、自分のスピードでここまで成長したんだもん。他人が自分で自分に納得をして日々邁進することに対して、私が何を言えましょう?相手からアドバイスを求められない限り、私は気づいても黙っていられます。社会がよくなるかよくならないかは、自分にしっかり責任が持てる大人が増えることです。善悪を他人のために決めてあげて、よかれと思うことをレールにすることではなく、自分分の成長をしっかり引き受ける子どもと大人をしっかり見つめていくことです。

自分もそうだったんだもん。昔を忘れ去るのはやめましょうよ♪

 

 

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