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正しい選択とまちがった結果

選択肢についてたくさんの関連話を書いてきましたが、正しい選択をしてもうまくいく確率が少ないと、人間くじけてしまいます。答えに設定した結果が道順や手順を踏み違えることなく、きちんとしていさえしても、希望通りの結果が出るとは限りません。

それはなぜなんでしょ?確率はどうなんでしょ?

今日は1995年作品のCopycatという心理サスペンスを見ました(邦題:コピーキャット)。見る人によってはSerial Killer(連続殺人犯人)の計画犯行の軌跡と捕まえる側とそれに翻弄される心理学者の物語なのですが、どこにフォーカスを置くかはてんこもりです。今回のテーマとは別にしても、かなりおもしろいので見てくださいね。西さんは二度目で憶えていなくて、ついつい最後まで見ていました♪ちょっとネタばらしなんだけれども、意味があることだし、他のことのほうが楽しめるかもしれないテーマなのでお許しください☆

刑事というのはとっさの判断力が要求されます。この映画にも3場面あるのですね、ストーリーを追っていけば意味が濃くなる射撃場面です。セオリーでは利き腕、犯人が銃を持っている側の肩を撃つことが、正しい選択なのです。それは犯人が本当にGuilty(罪)かどうか裁判にかけられていない状態だからです。それを先輩刑事が後輩に諭すところが第一場面です。その折りにおもしろい言葉が“Karma”で、日本語では業だとか性だとかいう言葉です。もっと厳密に言うと、

業:行為。行動。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為(三業)。また、その行為が未来の苦楽を導くはたらき。善悪の行為は因果の道理によって後で必ずその結果を生むというのが仏教およびインドの多くの宗教の説。

ということです。刑事は職務で人を撃つのであって、その人のConscience(良心・善悪の観念)と職業上要求されることとの矛盾が出てきます。その人に個人としての恨みもなければ、確執もなく、ただただ状況をどのように判断するか、というのはとても切なくむずかしいことです。その第一場面では、「ね、正しい選択をすればあなたの業も守られるでしょ?」と女性先輩が言うのですね。ここで、私は「うーん、うまい!」とうなります。社会的道義も個人のKarmaも守られる理想的な選択♪

そして第二場面で、パートナーが犯人に人質になっているところに遭遇する彼女が、日ごろ自分が訓練し信じていた通りに、犯人の利き手の肩を撃つのですが、次の瞬間、力尽きていない犯人は彼女のパートナーを背中から心臓に向けて一撃貫通します。目の前でその事件が起きた彼女に、ボスは「正しい選択だったんだ。まちがった結果が起きただけだよ」とつぶやいて辞表を受け取りません。

パートナーを失った想いを抱きつつ捜査は続きますが、最後の場面で、やはり彼女は選択を迫られます。銃を持っている利き手の肩に撃ったあとに、おなかを数発撃ち、それでも抵抗して銃口を向ける犯人の頭を撃ちぬきます。彼女のKarmaは大丈夫だったでしょうか?

社会の一員で職業を背負っていたとしても、人間ひとりとしての価値観との確執が出る場面は社会のなかで生きていれば、必ずひとつやふたつでなく起こります。たとえばこのような犯人を撃つことなどでも、殺すことなどなかっただろうに、という批判はとてもたやすいことであると思われます。そう言っておけば安心であり、社会情勢に悪化がもたらされず、社会的倫理観の向上が保たれるからです。実際に、連続殺人犯などは死刑宣告があったあとでも、長らく生かされて研究対象になることが多いです。それがどのような意義があるかは、専門家でないとその瑣末さや将来への材料価値はわからないことですが、私も個人的には死刑執行には反対ですが、事実です。

そしてその場にいた人間がどうして生命を奪う必要があったのか、という裁判があります。もちろん人間が作った制度ですから穴はあります。証拠についての人間の考え方にも穴があります。証人として立たされる人や罪を問われる警察官にも、ここだけでは語れない諸問題があります。

この3つに途切れた場面の流れを見て、私は「正しい選択をしてもまちがった結果」というのはあるもんだなぁということを強くまた感じました。その理由はさまざまでしょうが、第一の根元は個人によって「善悪判断」というのが違うことです。選択をしてその結果までにたどり着く道のりが短かかろうが長かろうが、拳銃の例であろうが、人間関係であろうが、学校選択であろうが、習い事であろうが、結果が希望通りに出るとは限らないことも、本当にあるんだなぁと。

正しい選択というのは、その背景や状況によって、「限りなく自分にとって正しい選択」であったということで、結局のところ、警察官としてと自己の矛盾があるときにおいて、そこには正しい選択はないのかもしれないな、なんて思ったりもしました。

私が事故に遭ったヘルニアになった「本を取る」という行為というのも「正しい選択」であったと思うのです。日本からの出張の男性がいて、その彼に本屋さんのいちばん高い棚にあった本を取った行為は悪い!と叫ばれたり、穴ありありじゃーん!と後ろ指をあとから刺されるようなものであったとは思わないのです。その足を掛けた中段にあった棚が私の体重を支えられるものかどうか、全体重を掛ける前にチェックをして「踏みふみ」をしたし、声にも出して「だいじょうぶだよね?」なんてやったりもしたのです。けれどもコンマ数秒の差で、中段の棚が抜けてどどどどーっと本といっしょに落ちてしまい、おもいっきり尾テイ骨あたりをがーんと打ち付けてしまい、さっさか立ち上がれたので、いっしょに居た人にはなーんの迷惑もかけずに済みましたが、結果はまちがってました。翌日、もう座ることも歩くこともできませんでした。何でだろう?と思ってもこれにはいい理屈がありません。

やっぱり「正しい選択だったんだもん、いいよ」と言い聞かせるしかないみたいです。

これを運だと呼ぶ人もいるんでしょうが、私は目下のところ、「必然性の偶然」というのを考えているところなのです。くしくもこのCopycatという映画のなかで、”You are a kind of person who thinks that things happen for a reason”(あなたは物事というのは理由があって起きると考える種類の人でしょ?)と心理学者(シガニー・ウィーバー)が刑事の彼女に言います。何だか闘病が長かったし、自分のしたいことがまったくできない日々が続いていたので、うじうじ、ぐじぐじ、うにゅうにゅしたこともありました。けれどもそれは人に向けてではなく、出来事やそれを取り巻くいろいろなことに向けてだったと思います。本屋事件にいっしょに居た人や、そのあとの交通事故で私の車に突っ込んできた人に対しても、なーんの恨みもないです。「うっそぉ!」と言われてもなぁ、ほんとにないし…。起きたばっかの頃は考えてもみました。悪意があったり、すごい過失があったのかなって。でもそんなのあるわけないんですよねぇ。だからぐるぐる悪循環の環に自分からぽんと飛び込んでも仕方ないし。

なので、決して天然お気楽野郎ではないのですが、境遇や病気や怪我やアタマの具合やいろいろなことに関しても、なんとなく「間違った選択だったんだ。だから間違った結果が起きたんだ」という自分で自分を負かすような言い聞かせはしないことにしています。たまにはしたくなるんですが、「ああ、私が馬鹿だったから、こんな結果になったのよぉぉぉ」というやつ。でも、結局選んだのは私であるし、それが正しいか正しくないかの二者択一で厳密に言えることでもなし、間違った結果かどうかも時間をかけてみないとわからないし、一応「正しい選択であった。まだ結果は出ていない」というふうに考えて、何とか生き延びています♪これも防衛本能な言い訳なんでしょうか?うーん、そうかもしれない。もう少し考えて宿題かな?「必然的偶然」というのを深く整理して考えてみるともっとわかるのかもしれません。チャンスを与えてくれたそこのあなたありがとう♪

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