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死刑制度賛成ほぼ9割

12/25/2007 にアップした文章です。

この数字にはかなりびっくりした・・・。そりゃ、賛成派のほうが多いとは思っていたのだけれども、ほぼ9割とは・・・。「わからない、一概に言えない」も含めると9割なわけです。これは社会科学の実験でいくと、「死刑制度は正しい」と結論が出せそうな勢いではある・・・。時代に逆行しているメンタリティである・・・。「戦争はしてはいけない」けれども、「政府による罰としての殺人」は支持する人が多いのか・・・。これがちょっと怖いと思うのは、冤罪や裁判制度の穴などを考えているかどうかがつかめないこと。私が危惧するのは、たとえ、自分がその冤罪や裁判制度の穴に嵌まっても、甘んじて受ける覚悟がある人たちが、死刑制度の支持をしているのかどうか?ということなのです。



Just Worldについては前に一度詳しく書きました。「私に限って」だとか「あの人に限って」などというナイーブなメンタリティのことです。これのおかげで、自衛を怠っていることは多く、自分についても顧みられないことが多く、建設的で前向きな意見や行動が取れないことが多いのです。

なぜか人々は、自分の周りには悲劇は起こらないと思い込んでおり、自分が信じた人は決して自分を裏切らないとすら思い込んでおり、実際にその逆のことが起きたときに驚く・・・。予測可能範囲だったことを想定しないがゆえに、その心的ダメージは大きく、対処や立ち直りや修正などに大いに時間がかかるわけです。いい意味での防衛として、「私に宝くじが当たるわけがない」と思っていても、ドリームジャンボは買うんですよ(笑)。なぜならば、自分には「よいこと」は起こりえるわけです。いつもけなげでがんばっているから♪その可能性のほうは決して否定しない。まぁ、いいことなんですよ、このポジティブ志向は。けれども、ネガティブなことを一切考えないのはヤバイです。起きるわけがないと思い込んでいて起こったときには、「まったくどうしていいかわからない状態」に陥るわけで・・・。

ところが、遺族の気持ちには立てるらしい・・・。ひどいやつはこの世から居なくしてしまえ!と、存在そのものを否定する傾向は、かなり原始的から近い考え方で、混在の存在意義を認めてきている近・現代の流れを軽んじているものです。たとえば文化。New Yorkなどで見られた「人種のるつぼ」という表現は、チーズを溶かしたような主流に細かい亜流の文化を持った人々が合わせていくためのものでした。英語では、Acculturationと表現します。が、80年代後半からは、それぞれの個性をなし崩しにせず、いいところは主張し、存在そのものを枯渇・衰弱させたり、絶滅させたりしないように、との願いをこめて、「トスサラダ」という表現に変わっていきました。Tossed Saladは、たくさんの具材がそのままそれぞれの味を主張し、それでも全体的には調和を成すというところから来ています。

日本は島国ですので、外来襲来に対して弱いという弱点を知ったほうがよく、それを防衛するためにはどうしたらいいか?などというのは、スポーツのセオリーなどでもわかるように、攻撃は最大の防御なりなのですから、外来するかもしれない物事や人物や文化その他について知り尽くせばいいでしょうよ・・・。アイスホッケーでたとえるならば、パックをゴールにシュートできないように美しく操作するわけです。よしんばされたとしても、強固な守りができる神様のようなゴーリーを据える。そのほうが、おおっぴらな拒否や、国際的除け者になるよりは、ずっと賢そうですし、和を重んじることになりますもん。『Noと言える日本』以来、なんだか曲解されている物事は多く、ちょいと心配ではあります。殴って子どもが言うことをきくのであれば、いくらでも殴ればいいですが、実際は恨みやつらみや引っ込みばかりが多くなり、子どもの本質を失わせて、伸びる人材になる芽を摘むことになります。いや、ブートキャンプ式が効く人もいるんでしょうが、それがすべてではないですから・・・。

それが犯罪であればどうすればいいのか?そもそも、犯罪ゼロ地域なんてものが存在すると思うこと自体が、ナイーブすぎる。アダムとイブが原罪を持っているという象徴的なあの有名なストーリーを知らない人など数少ないはずです。一度も倫理的にネガティブなことをしたことがない人なども居るわけもなく、ルールを1から100まで守れている人というのが居たら、ぜひお会いしてみたいものです。

不可逆性の殺人においては、死刑は成立させていいだろう、という見解には、やはり私は賛成できかねる。遺族の気持ちを思うと居た堪れないのは事実です。けれども、「そいつが居なかったことにしたら救われる」とうい短絡的な考え方は、やっぱり通用しないでしょう・・・。自分の身近な問題については、「報復や復讐はいたちごっこでキリがない循環メンタリティ」とわかっていて、それが実行できたとしても、他人についてはまったく知らんぷりか・・・。

佐世保のスポーツジムでの事件などに見られるように、犯人がその場で死んでしまったら、死刑制度があろうがなかろうがいいってことなのかしら?死刑で当然だから手間と税金の無駄遣いが省けたってことなのかしら?それでもたくさんの「なぜ?」を未だに追求しているのはなぜなのかしら?「なぜ?」に答えがないことはオプションに入っていないのかしら?そうなると、死刑があっても絶望的なんじゃないのかしら?と私などは思うのです。

この感情的な理屈を日々の中に取り入れてみると、とても怖い。ホラーストーリーです。まだ価値観が一致していない物事があり、そのメンバーの成熟度がバラバラだった場合、「あいつは特別な理由なんかないけどむかつく」と、いじめていてそれには共感できるけれども、「いじめるのはやめよう」という方に共感できない人ばかりだとしたら・・・。というか、現実、そんなことが日々起きているわけですが・・・。大人ですら、職場でそれくらいのキチガイ沙汰が起きているわけで・・・。よしんば、「きれいだから」「仕事ができるから」「ブスだから」「仕事がまったくできないから」などと、いくら理由をつけても、同じことではあります。いじめに遭った人の体験談を聞いて、「私もよ」と涙する人は山ほどいますが、冤罪については誰も何もしようとしない確率のほうがずっと高い。ならば、その根っこのところにある「冤罪を防ぐ最大の方法」として、取り返しのつかない死刑という生命を奪うことだけはやめようというアイディアがあっても悪くない・・・。

実際に、アメリカでは、いろいろな州が告訴されています。民事で数千万から数億のお金を支払う羽目になっています。DNA鑑定ができるようになってから、たくさんの人々が冤罪だということが判明しているわけです。自白や目撃証言で立件されたケースについては、その予防のために取調室のビデオ録画なども義務付ける州すら増えています。

人殺しをした人間を税金で食べさせる必要はないと怒っていますが、むしろ年金問題や、軍事予算や技術開発のための予算のほうがでかいだろう・・・(汗)。しかも、自動的に得られる権利である裁判が度重なるたびに、税金は使われているわけで・・・。終身刑にしたほうがよっぽど安上がりだし、本人の意志があれば、データがたくさん取れるんだから、私にはそっちのほうがずっといいと思える。CTスキャンやMRIなどで脳の働きを取ってみたり、退行してどんな家庭環境だったか、どのくらいの学習ができているか、どんな事件があったからそうなったのか、などなど、データの宝庫だけどなぁ・・・。

そもそも、死刑に賛成している人の最大の理由は何なのだ?単純に抑圧して制止力があると思っていらっしゃる間違った情報を信じている方々もおられるようだ・・・。遺族の感情だとも言うんだろうか?私は被害者ですが、そんな報復・復讐心を持っているあいだは、まったく立ち直れた感はなかったですし、PTSDの症状も停まりませんでしたから。そんな人を社会に存在させておくのが怖いだとか恥だとかいう理由もあるんだろうか?だとしたら、大いに恥じていただきたい。彼らを作ったのは、直接的でなくとも、私たちなのだから・・・。

過去エッセイと反復しましたが、ニュースに驚いたので、また書いてみました♪

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