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父の仕事へのこだわり

 [1999年07月28日(水)]に書いた文章です。ひどくセンチメンタルです(汗)。

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父はハイヤーの運転手だった。朝日新聞の記者を載せる社旗の翻る黒塗りのハイヤーで、葬式のとき、父を乗せた霊柩車のすぐ後ろには、父が入院する直前までハンドルを握っていたそのハイヤーが続いた。それに乗った私は写真を胸に抱いて火葬場までの道のりで、父の仕事場の小さな空間を見た。その後ろには職場のハイヤーがもう10台続いていた。個人の葬式にしては数の多い参列者と花環の名前をもう一度噛み締め、父が望んでいた「俺の真価は葬式のときにわかればいいよ」と飲んで繰り返し言っていたことを思い出していた。

東京に出て職を転々としたあと、運転手になった彼は私が24年半住むことになる借家を借りた。1962年で家賃1万円の普通程度のところで、2部屋にお風呂に庭があった。運転手の給料はほぼ年齢給ではなく、歩合である。今では若くても年食っててもだいたい似たようなもんであろう。

2勤2休の生活のなかで、貯蓄をすればできたはずの当初の給料で、彼は同僚と酒の飲みまくった。28歳で酒と煙草を始めたのは、職業病を外に出さない彼なりの予防だったと思う。それには金もかかった。とにかくそれまでのさみしい生活から彼にはたくさんの仲間ができた。それでも長年かけて、不眠・アルコール依存・喫煙によるさまざまな障害・腰痛・痔・消化不良などなどに悩まされた。

次男である彼は妹2人と弟ひとりを東京に呼び寄せ、うちに下宿させた。そのときに手作りでもう一部屋を増築したのを憶えている。渡り廊下に洗面台もつけた。父が養子に出された分家は大工だった。

たった3部屋に父母・私・弟・叔父・祖母・祖母の内縁の夫が7人住んでいたこともある。1970年に祖母が死んで、叔父がその翌々年結婚してからはずっと4人だったが、とにかく狭かった。

母も内職をしていたが、彼が使うお金には文句は言えなかった。彼女の内職での手の速さや料理をたったの30分で終える賢さに、私はいつも「仕事とはこういうもんだ」と幼いながらに納得しており、父の仕事の現場をまだ見ぬ頃には、父をひどく恨んだこともある。

けれど私が小さい頃は「みんなこんなもんだろう」「これがあたりまえだろう」と家族全員が思っていた。私は給食がいちばん好きだったし、質屋のシステムを憶えたのも小学校3年生だった。お誕生会へプレゼントを買えないから、と出席を断ることもその頃に始めた。みんなこんなもんじゃなかった。あたりまえでもなかった。1970年代の現実はもっと他にあった。

着物や指輪を風呂敷き包みを抱えて知り合いが出てこないかどうか私に合図をさせる母に、そのときもう既に憐憫という感情を抱いていた。父には内緒であることも知っていたし、母は父に何も言えなかった。与えられたお金でやりくりできないことは、彼女の不能力の現れだとも言っていた。そうじゃない、と私は思った。

家にいる父は厳しいけれどとても愛情に溢れていて頼もしかった。仕事の説明もしてくれて、たいへんなプライドを持っていた。いつもNHKを見せられて年端の行かぬ私に政治を説明した。その破片が私の身体に染み込んでいった。けれどやっぱり貧乏は嫌だった。

母は内職を増やし、私は同じ服や靴下や靴を洗濯して着回し、図書館で本を借り、給食をおかわりした。そんな女の子はクラスでもあまりいなかった。なのに父は酒を飲み、煙草を吸い、自分の故郷にしょっちゅう帰り、見栄をはって同僚を家に招いた。大きくなるにつれて貧乏は増していった。早く16歳になりたいと思った。母の内職を手伝ってお小遣いをもらうのは効率が悪かった。

父の仕事はただの運転手だった。偉い話をしてもでかい話をしても、彼はただの運転手だった。世間では少なくともそう見られていたし、彼個人を気に留める人はいなかった。酒宴で大声でケンカをし、意気投合しては見知らぬ人にごちそうをしたり、メーデーの先頭を切って旗を振り上げる彼を、それでも私は誇らしいと思った。自分のスーツやネクタイや靴下にはふんだんにお金をかける彼をかっこいいと思った。母や私たち姉弟にはお金は余分にくれなかったけれど、生命保険をたくさんかけて貯蓄をしている彼を知ったときにも、私は彼をまっとうな人だと思った。私が縁側から飛んでしまうほど殴られるときにも、言葉の足りない父が本気で暴力をふるって怒ることに私は本気にならねばと思った。

貧乏は嫌だったけれど、私たちを飢えさせるのは嫌だったけれど、彼にはたくさんのやらなければならぬことがあった。16歳で私はすぐさま働き始めた。途轍もなくやっかいな人間のヒエラルキーを思い知らされた。父は虫けらのように扱われてきたんだろうと思えた。私が大学を中退するのをあんなに悲しみ怒ったのは、彼自身が打ちのめされてきたからだった。

信じられなかった社会に迎合せず抜け出すために、手に職をつけて生き延びるために、私が渡米して学ぼうとしたのは父と同じ運転手への道だった。コンボイ(でかいトラック)でもイエローキャブでもなく、ヘリコプターの運転手だった。当時、税金対策のために飛行機やヘリを購入する先見の明がある会社がぼちぼち出始め、年収1千万以上の道はたやすかった。懸命に働いて貯蓄し、資金ができたらあとは何でもできると信じた。私はそうしてやってきたし、これからもそうやっていけるのだと信じた。

父といっしょに生命を繋げるために世間に復讐をしてみたかった。母のように泣いてばかりいる女性にはなりたくなく、こんな悲しい想いをする女性をたくさん増やしたくはなかった。

ガンで闘病中にも彼の仕事はついてきた。口がきけなくなるまでは絶対にすべての見舞い客に逢うと彼は望んだ。9日間の入院でのべ110人の相手をした。うち最後の二日は面会謝絶であった。1月末に死んだ彼はもう5月の春闘の話をしていた。執行委員会の批判をし、日本の医療制度の批判をし、私は新聞を彼に読んだ。そうやって最後まで、世間にとってはどうでもいいはずの彼は、仕事にこだわって死んでいった。葬式にはのべ650人が参列した。

私は仕事にこだわり自分を体現することを止める選択をした。アメリカで就職までしたパイロットは放棄した。いつか職業にすることはもうないだろう。「仕事」の犠牲になって涙を流す人がいませんように、と祈ってはいるが、きっと止まないことだろう。

父は仕事にこだわり健康を崩しガンになり死んだ。「こんなに早く死にやがって」と54歳で死んだ父を同僚や兄弟は惜しんだ。彼のことをいかに愛しんだか、彼がいなくなったあとにわかる人が何人もいた。逢えるときに逢っておけばよかったと悔いている人もいた。絶対に忘れないと誓う人もいた。

けれど彼の真価をわかる人間は、私以外にこの世に存在しないことを私は自負している。

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