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痴情の果て

09/05/2007 にアップした文章です。

 

人は自分の痴情について語りたいものなのだろうか?と不思議に思うのが、インターネットに溢れているポルノ系の広告の数に圧倒されるのと、やらせが何%くらい入っているのか?と予測するとき。インターネットというのは、そもそもビジネスに必要だとして開発された反面、その推進力は人間のスケベ心で、ポップアップや料金徴集など、ポルノのおかげで技術革新してきたわけです。なんだかすごいなぁと思う・・・。食欲すらも「思い出しがてら」になっている私としては、どうもゆとりがない。ましてや、性欲から生まれた感情について、あれこれ風情あるよう発展させてみる時間のゆとりも、心のゆとりもないのである・・・。うーむ・・・、そのバイタリティはどこから来ているのか?と、つくづく生命の根源の表象の違いに驚くのである。

なぜこんなことを考えているのか?というと、津本陽作品の中では、かなり異色と思える『恋の涯』を読み終わったせいです。そもそも彼の経歴を知らなかった私は、彼は生粋の時代小説家なのだと思い込んでいた・・・。しかし、デビュー作が(デビュー前に同人誌に出してみた小作品は3・4あったものの)が、直木賞候補になったことで、それが残っていてよかった・・・。『丘の家』という一風変わった作品で、その作品は、彼の大学時代、いわゆる青春の最中を描いているもの。その一連の作品が、『恋の涯』に全部で3作入っており、タイトルの作品は、自身の不倫について描いているものなのである。『丘の家』では、独身でしゃかりきにがんばっている女性が、旅館の経営を親戚に任せたあと、自分は別館として東北大を訪ねる全国の学者たちに宿泊してもらうだけの別館を切り盛りし、そこに間借りをしていた筆者から見た、その女性についてを描いているのです。その女性は、お金を捻出するために、米軍軍人相手の「貸し座敷業」を始めて、近所の娘さんたちに売春を斡旋するようなことまでするのですが、筆者はそれについての不快ラインを最後に持って来ています。

そして3番目に来るのが、自身の不倫話なのですが、東北大在学時代に、自分の師事教授の妻と不倫し、長きに渡りこじれて、結局どのようにして別れたのかが描かれており、性描写は詳しくないにしろ、自身の体験をベースにしなければ、あるいはとても親しい人の経験をベースにしなければ、とても書けないようなものなわけです。20歳と34歳。古い商家の実家の人々の立ち回り。教授や彼女の実家について。

私は、ひとつの恋や愛にこれほどまでに「執着できるか?」と思えるほど、淡白な人間なのだなぁとつくづく感じた次第です。

執着:ある物事に強く心がひかれること。心がとらわれて、思いきれないこと。
思い切る:(1)きっぱりあきらめる。(2)心を決める。覚悟する。
諦める:望んでいたことの実現が不可能であることを認めて、望みを捨てる。断念する。思い切る。
覚悟:(1)危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること。(2)〔仏〕 悟りを開くこと。(3)知ること。(4)覚えること。(5)観念すること。あきらめること。

ふむふむ・・・。この一連を咀嚼すると、私の場合、淡白なのではなく、計算高いとも言えるし、情が濃くないとも言えるのかもしれず・・・(爆)。

ある物事に心は強く魅かれることはありますぜ(笑)。OCD気味なところがあるので、考え始めると解決したり、何かの納得が得られるまでずっと思いつめたりして、心が捕らえられている状態もよく体験します。不可能について諦めることは、私はすぐに決断します。思い切れないということはなく、不可能か可能か、や、自分にとって好ましいか好ましくないか、というのは、自分を中心にして考えないのかもしれません。事実は事実。現実は現実。自分はそこに参加者として登場しているだけで、ヒロインでもなければ、重大存在でもないと考えれば、それほど覚悟ができないことでもなく・・・。

↑こういうことがおそらく、非情なんだろな(爆)。

もちろん、私も人間なので、Selfを中心に物事を考える癖というのは、多々あります。が、しかし、人間の脳や心の仕組みがそうなっているということを、知っているので、自分がそうなってばかりいて、それに支配されて左右されることを、訓練によって回避しようというあはれな心が生まれるのかもしれません。いや、時としてあはれなだけで、普段の生活であはれだと思わない場面のほうが多いんですけどね・・・。

けれども、感情の中でも、フツフツとした情熱的なことに関しては、時としてあはれと思えることもあるんでしょうねぇ。そんなときは自虐的になるしかなく・・・(爆)。

こういう私にとっては、他人の痴情を覗きたい感情もなく・・・。一般的な流行や傾向だけをわかっていれば、好奇心がそのうえそそられるような対象物でもなく、むしろ、自分が理性を失う時間を増やすことのほうが怖い対象なのかもしれません。

痴情:理性を失って、男女間の色情に迷う心。

私もそれなりに若い頃は、一目惚れや育む恋愛感情もあったのですが、それが性欲に直結するようなこともなく、西さんという安定した人を得てからは、彼が不在だったり、多忙だったりしたときに、気になる人ができても、やはりどこかで順位があり、理性を失ってまでも男に迷いたいとも思えず・・・。それが私以外の人がやればかっこいいこととも想えるのですが、私がやると茶番でしかないような・・・(笑)。

津本陽のような硬派なイメージな人でも、自分の青春の1ページを語りたいのか・・・と思うとびっくりさせられ、だったら、性欲の塊のような人々が、ポルノサイトで他人の性生活を覗き見したいのも当たり前なのか、とも思える・・・。渡辺淳一作品も、実際は宇野鴻一郎やとどのくらい違うのか?と問われると、私はそのへんのグラデーションがわからない(爆)。こんなサイトで知識は得られるのだけれども、実感として自分の中に取り入れられている自信などは、まったく持てない(汗)。しかも、「不快な表現が含まれている」とは(爆)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E8%83%BD%E5%B0%8F%E8%AA%AC

どうして痴情が恐怖を呼び起こすのかというと、夢のようなもので、いつか時間が経つと醒めてしまうのが怖いんだろうなぁ。陶酔しきれているうちはこれ以外の世界はないと思えるのだろうけれども、哀しいかな、脳がここにあり、理性はカケラ以上にあり、どうしても時間に支配されており、生きている・・・。瀬戸内晴美の「腹上死された経験」を描いた小説を読んで、「死んじゃったやつはいいだろうけれども、犯人みたいなことになり、残された女はつらいよなぁ・・・」と、10代くらいに感じたことも影響しているのかもしれず・・・。しかも、彼女は出家したしなぁ(爆)。

キリというものがないことに、どうも飛び込む勇気はないようだ。これまでタバコというキリのないもので失敗し続けているので、もうコレ以上は引き受けたくない模様・・・。お酒は回数を克服したんで、すっかり上機嫌状態なのですが、心理的なものは面倒なので、もう要らないんだな・・・。

痴情の果にはやはり理性が待っており、自分で自分を痛めつけるのが怖い、というのは、Selfを尊重したい動機に左右される所業。やはり、私はヒトであることから逃れられないんだろうなぁ。陶酔している人々がやはり逃れられないように・・・。

 

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