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統計になる不快感(2)

06/22/2006 にアップした文章です

 

私も知らないあいだにいつも統計学の一部にさせられているのですが、幸いなのはまだ「殺人被害者」にはなっていないことです。日本でもアメリカでも「暴行被害者」としての統計のひとつにもなっていません。立件しなかったからです。が、それでも日々、むっとするような統計の一部にはさせられており、致し方ない場面では納得もしますが、素人の無目的な、ひどい統計には抗いたいという気持ちは捨て切れません。相手にするなって?(笑)うーん、真剣に取り扱ってしまうのよねぇ・・・。人の話を終いまで聞くのはマナーです。

私は障害を持っていますが、本当に倖せに暮らしてこられています。日々、エクストラで気をつけなければならないことは多いですが、それは障害を持たない人でも大差はなく、生理痛であっても、偏頭痛であっても、平熱が低いことであっても、気をつけてそれをたいへんなことにする前に何とかする日々に変わりはありません。むしろ、人に被害を加えてしまう加害者の立場になってしまう危険がある傾向を持つ人々のほうが気の毒です。たとえば、AVポルノのAddict(中毒者)であるがゆえに、性生活が複雑になる場合のことについては書きました。彼女や配偶者は満足している振りをしているだけで、実際は心のどこかで不満を溜め込んでいたり、傷ついているのかもしれないし、逆に大笑いしているのかもしれません。信頼できる人が心からおらず、外見は平穏無事な人生を送っているように見えて、空虚に充たされている人々もやはり多いのかもしれません。そんな人たちも、エクストラに気をつけなければならぬことがたくさんあるので、障害を持っているから特に不幸だという気持ちにはなりません。

統計学をしっかりわかっておらぬまま、物事を平然と比較し、さもありなんと語る人々は、「自分が持つある物事に対してのイメージ」を先行させて暮らしています。それは、IQとEQ(Intelligent Quotient;知能指数、Emotional Quotient;感情指数)のコンビネーションがなせる業です。「事実をどのように解析するか」とも置き換えられます。事実に到達できる人々は、IQとEQを駆使しています。事実に到達できない人は、外れた意見をさもありなんと詭弁で通す日常となります。

IQの見地から見ていくと、しっかりとした数的センスがなく、そのまま自分の周りの数字をこねくり回しているだけ、という状況です。「事実をどう解析するか」ということには、数的センスは重要です。数学が得意・苦手というレベルの話ではなく、数字が多いか少ないか、100は小数点なしでは0から100までの101個の数字から成り立っている、という程度がわかっていれば理解可能な範囲です。あとは、今までの自分の既知であることと組み合わせていけば、充分に理解を進められます。

EQ部分に関しては、「自分も他人も同じくらいの価値があり、同じだけ尊重して然るべき」という考え方を本当に持っており、それを体現していけるかどうか?という能力-共感が左右するキーポイントになります。自分の世界観や価値観を持つことは大切なことですが、世界はその規則で廻ってはいません。他人がもつ多様な世界観や価値観が織り成すタペストリーの中の、自分のそれは一糸であることを本当に理解しているかどうか?ならば、他の一糸一糸をなおざりにしないでいけるかどうか?ということです。欠落していると、簡単に、ランダムサンプリングができていない事柄に関して、自分の世界観に当てはまる物事を結論として下すことになります。ある人にとっての事実を認め、自分はそうでないが、それもその経路でたどり着けば事実ですね、という準備ができている人はなかなか少ない。自分が物事に対して持つイメージを捨てきれないからです。捨てる必要はないのですが・・・。EQが低い人にとっては、事実の解釈はいくつもあるのだ、というふうに考えることが難しい。

ステレオタイプをされて不愉快になったことがない人というのは、悲しいことですが実在します。統計学でどんな軸を持ってきても、いつもμ(平均値)に近いところにいる人々はやはりいます。どんな軸でもいいです。既婚・未婚や園年齢、子どものありなし、学歴や収入、専門分野の人口密度、興味やシュミ、疾病傾向、色彩感覚、などなど、軸は多岐に渡ります。そのどれもで平均値にいる人間は、極端に外れた考え方を否定する傾向が強くなります。

IQとEQのバランスが取れている人間で、極端に外れた位置に属した経験がある人々は、平均値に近い考え方も理解でき、尊重もできる確率が高くなりますが、逆はなかなか無理だというのが実態です。

なぜなのか?自分が経験したことしか信じない傾向も強いからで、想像をめぐらせる・共感能力を駆使することが、習慣化されていないからです。回りを見れば「そうだよねー」「それがフツーだよねぇ」に囲まれて暮らしているので、どんな意見を発しようとも傷つくこともなければ、想像外のこともあまりない。「朱に交われば赤くなる」効果も手伝い、似たもの同士が寄り付き合い、固まった考え方の外には出て行かなくなっているのが傾向です。

が、平均値の外、はるかに外である+-3Σ(シグマと読む)、ベルカーブの端っこ、人口で言えばわずか2%未満に属したことのある人間は、それがたとえどんな軸であったとしても、他の軸についても「そうかもしれない」「こうなのかもしれない」と、比較想像をめぐらすことができます。たとえ、その特定の出来事を経験しておらずとも、想像や共感は働くわけです。

あー、具体例で行きましょう。留学をしたことのない人々のほうが、日本人口の中では圧倒的に多い>μです。が、これらの人々の中には、海外旅行に数泊で出かけたり、複数の国にもちょろっと出ていたりもするし、国内もくまなく見てきている気になっている人々は多い。-3Σほどの人々は、自分が生まれ育った町や市や県から一度も出たことがない人だとしましょう。+3Σほどの人々は、行くという暫時的行為ではなく、複数の国に「根ざして一定期間以上生活したことのある人」だとしましょう。「アメリカ人って○×だよね」というステレオタイプな決まり文句を言ってしまうのは、このμにいる人々であり、決して自分の小さな町や市や県から一度も出たことがない人々ではないのです。そこでの濃密な人間関係や、にっちもさっちも行かない焦燥感や、情報が少ないがために起きる誤解から学んだことなど、「N町の人間は○×だ」と決めつけてほしくなどないという気持ちがあります。当然のごとく、複数の国に外国人として一定期間以上生活した人々も、その文化的背景などに配慮できるため、「アメリカ人って○×」などとは到底言えないようになります。自分が外国人として、二重の3Σを与えられる経験をするためです。

どんな物事を見ていくにも、このΣの経験は大切なもので、すべての軸において外れた感覚・孤立感・挫折感などを持ったことがない人は、おそらく共感能力のEQは低いのかもしれません。もちろん、μの経験も大切なんですよ。が、自分がΣの体験をしたことがあるかどうか、ちょっと確認してみてください。Σの体験ばかりをしている、と自己陶酔している人たちもよく見ますが、ランダムサンプリング以前の問題なので、統計学がどれくらいズレているかは、その場合明確です。

私もこうして統計学を便利に使っていますが、人を数値として捉えたままではいません。ある人が語り始めたら、終いまできちんと聞き、そこに統計学の軸がいくつも隠れていることを認識します。それにより、彼らひとりひとりの論点がどこから来ており、彼らなりの事実にどうたどり着いたのかを知ろうとします。それが誰にでも当てはまることではないことは承知で、社会科学者の卵である私は、果てしなさにふぅーとため息をつきつつも、おもしろい・楽しい♪と思えるのです。

前出の「障害者の母親は、自分の子どもを障害者とは呼ばない」と、自分の周囲だけに照らし合わせた統計を用いて、統計学だとした人に対して、どう説明したらいいのか?と思いながら、こんな文章になりました。不明瞭すぎると思いますが、何か質問がありましたら、コメント欄でお願いいたします。

 

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