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自律が与える誤解

自律:1.自分で自分の行為を規制すること。外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること。2.ァ.カントの倫理思想において根本をなす観念。すなわち実践理論が理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと。イ.一般に、何らかの文化領域が他のものの手段でなく、それ自体のうちに独立の目的・意義・価値を持つこと→他律。

これについて書こうかなぁと迷っていたところメールが届いてリクエストがありました♪←心あたりのメールくれた人ありがと☆

私がRobert B.Parkerのスペンサーシリーズのスペンサーが好きなのは、この自律っていうやつのせいであると思います。欲望のまま動く弱いよわい人間であることを知っているので、やはりスペンサーにすがりたい、見本にしたい、という大きな動機があります。なぜ架空の人物だと安心できちゃうのかは別の話ですが、彼が自分に課すいろいろな決め事というのはものすごい厳しいものです。自分の生命が危険にさらされてでも守らねばならないことがたくさんあり、それをこなして生き延びたり、守れないときにする内省には学ぶことがたくさんあります。

けれども誤解を受けることがとても多いスペンサーはなぜか気の毒です。うーん、でも裏を返してみると本人はしあわせそうだし、ふれあった人々はそれなりに納得していくのでまぁそれもいいか、という感じもあります。そして私も同じジレンマはあります。ネットで知り合った人には決まって難しいことを話す、リアリティの薄い人だと思われていて、逢えばフツーじゃん、になり、感情よりも理性が先に動くという誤解。

まっさかぁ、煩悩のカタマリなんだから私だって怠けたり、自分の言葉を裏切ることはたくさんあります。けれども本能や感情だけに支配されないで、バランスよく倫理と情緒と共生させていきたいという願いがあり、その極端な例が私のスペンサーでナマミのぐちゃぐちゃな私のいいお手本であったりします。高倉健の映画の主人公やカゥボーイ映画の主人公なんかも同じことです。カメラが廻っているところだけが彼らの暮らしではないのだけれども、他人についてはそう想いがちなのが人間であるのかもしれません。見られる部分が大きくアタマに焼き付いてしまうのは当然であるような気がします。

けれどもここで問題なのは、私をはじめとして愚痴や自慢や疲れをネット他、他人の人生にまで持ち出したくない傾向の強い人にとってのイメージです。とか言ってて、昨日は二日酔いで使い物にならなかったのでちゃんとだめなときは書いてるんだけどなぁ(爆)。ぎりぎりまで我慢してしまうことが今回の怪我でも裏目に出たことも多々あります。けれども全般的にやはり考えて我慢してきたことが悪かったとは思えないし、こうして書いていることで健常者とまったく変わらないという印象を持ってもらえることのほうが私はうれしい。ここに来て見てみないとわからないくらいのほうが私はイーブンにおつきあいできてうれしかったりします。そうでなくても毎日西さん他、リアルタイムでナマミが影響する問題点はあります。

直接言いたくないわけです:「私が不自由なのにどうしてわかってくれないの?」と。西さんは運転が散漫です。乗せてもらっているなら文句は言うべきではないのかもしれませんが、ブレーキが遅かったり、Bump(ブレーキを誘発するための凸面)があっても激しくブレーキを踏んでぼこっと乗っかります。車間距離が短ければやっぱり身体中が緊張して踏ん張るし、Bumpでは腰と足にずどーんと響くものがあって、身体が不愉快です。これはインスタントなものなので感情に支配されがちです。でもやっぱり多少考えて最初の数回は、「ねね、どうして黄色とか赤信号でアクセル踏んで近くなってから強いブレーキ踏むの?」とか「反復横飛びって覚えてる?あれは反射神経とは関係ないか?」とかって話してます。でもやっぱり何回も何回も続くとものすごく感情的になって我慢できなくなります。「どうしてブレーキをもっと緩やかに踏めないの?痛い」となり、まだそのあとも続くようだと「痛い」だけになり、まだこれでもかぁと続くようなら「どうして自分勝手なの?私が痛いって言っているのは無視するの?」になり、切れると「降りて。運転代わる」になっちゃいます。

アタマごなしに最初から怒っても意味が見出せないからこういういたちごっこしているのですが、他の問題点でも似たようなことをしています。それは私の自律と同じくらい他人の自律を尊重することなので、大切なプロセスであると思っています。

いきなり感情と感情をぶつけあって物事が悪くなることはたくさんあります。私は喜怒哀楽が病的なくらい激しい質なので、この自律という規範にいつも忠実でありたいと思うのです。そりゃたまには感情的なところも見せていいんでしょう。けれども私が俗っぽく愚痴を言うことで何か建設的だったことは数えるほどしかないです。自慢や疲れもそうです。平常心とのギャップに驚かれて下手ないさかいになったり、言われなくても抵抗感が返ってくるのを感じたり、「ん?どうして?普段言っていることと違うじゃない?」と責められてしまいます。

そりゃぁ、感情的になってるんだからさぁ、普段と違って当たり前でしょ。それを一生懸命理性でコントロールしようとトライしてるんだからさぁ。これ以上感情的になっても何も進められないし、悪態を見せて相手にいいことなんか何もないよ。そういうときはひたすら休むに限る。知的作業をやめて、食べて寝てコメディでも見て充電する。森のなかを散策したり、海辺をはだしで歩く。でも私にとって問題なのはこのタイミングだったりします。我慢をぎりぎりまでして、誤解を与えまくっているのだと。そして誤解が起きるたびに私が悪いと思い込むのももういやだなぁと思います。一度や二度じゃつかめないのかもしれませんが、他人のために自分の我慢や、理性と感情の境目コントロールのリズムを崩したほうがいいんだろうか?

ナマミの私をいくら伝えても、私がわからない私、これからどんどん変わって行くだろう私を、責任持ってとことん見守り続けていってくれるのは自分以外にはいないのじゃないか?と私は思うし、それがたいへんに自然でいいことであると思います。みんながみんな、自分に責任もてるようになったらこの世はましになる♪同じ質の愚痴を言うために集まる必要もなくなるし、違う質の自慢して自己満足を得るためにいばる必要もなくなるし、どんだけがんばったから疲れているかなんていう競争をする必要もなくなります。みーんな愚痴のひとつやふたつ言いたいし、言えるから友達なんて慰められてもまだまだ疑っています。

問題がある状態や、それに対処していく自分がそこにいることや、目標があってそれに邁進して自分をアジャストしていく変化の状況で、どんなに疲れても、どんなに憐憫や同情や共感が必要でも、どんなに自分を正当化したくても、最後までつきあうことができないのならば、他人にはできることがかなり少ないでしょう。これが私の言う、「自分にしかできない闘いの領域」であると思います。だから愚痴を愚痴だと流してくれないような関係ならそこまでで、私はもう愚痴は言ってはいけない、という規範~自律の元~を作ります。だって建設的じゃない表現しかできないんだから、それはもう愚痴以外の何者でもないわけで…。

そして愚痴や疲労が少ないと人間味が希薄だと言われ、自慢ばかりしていると言われることになっていきます。いつかこれがエスカレートすると山にひとりでこもらなければいけなくなるかもしれません。うん、絶望的になったらそれもいいか…。

「自分にしかできない闘いの領域」、自分で決めた規範を守れなくなること、そりゃぁ私にもあります。アルコールを飲んだら炭水化物は摂らないなんていう決め事から、披露はするけど教えないとか、みんなと対等につきあうとか、ずぼら自慢はしないとか、問題点には根本的解決を求めるとか、まぁ、いろいろあります。破っては反省していますが、相手があることは率直に謝り、その他は自分で反省会を開きます。

他人に与える印象は自分が原因であるかもしれません。けれどもこういうジレンマまでわかってくれて言葉にしている人はそう多くはないと思います。だから人間味が希薄だとか言われても、スペンサーのように凛としていることが大切であると思いながら、それでも感情的な部分が苛立ちを覚えます。でもこういうことも、わからない人のロスであるのかもしれません。そういう人の数が多いからと言って、私や私と同じように自分を律する人のアタマがおかしいわけではないし、わからない人が間違っているとかおかしいわけでもないです。

これが私の言う「人間はひとりひとりユニークで特別で違う」というゆえんで、私が自分のことを特別扱いしていることだというイメージを持ってくれてもかまいません。私にはそういうつもりは一切ないし、私が自分を大切にするのと同様、ふれあう人すべてを特別な存在であるという認識の下におつきあいしていくために、繰り返し使わねばならない言葉であるからです。けれども誤解を受けることがとても多いスペンサーはなぜか気の毒です。うーん、でも裏を返してみると本人はしあわせそうだし、ふれあった人々はそれなりに納得していくのでまぁそれもいいか、という感じもあります。そして私も同じジレンマはあります。ネットで知り合った人には決まって難しいことを話す、リアリティの薄い人だと思われていて、逢えばフツーじゃん、になり、感情よりも理性が先に動くという誤解。

まっさかぁ、煩悩のカタマリなんだから私だって怠けたり、自分の言葉を裏切ることはたくさんあります。けれども本能や感情だけに支配されないで、バランスよく倫理と情緒と共生させていきたいという願いがあり、その極端な例が私のスペンサーでナマミのぐちゃぐちゃな私のいいお手本であったりします。高倉健の映画の主人公やカゥボーイ映画の主人公なんかも同じことです。カメラが廻っているところだけが彼らの暮らしではないのだけれども、他人についてはそう想いがちなのが人間であるのかもしれません。見られる部分が大きくアタマに焼き付いてしまうのは当然であるような気がします。

けれどもここで問題なのは、私をはじめとして愚痴や自慢や疲れをネット他、他人の人生にまで持ち出したくない傾向の強い人にとってのイメージです。。ぎりぎりまで我慢してしまうことが今回の怪我でも裏目に出たことも多々あります。けれども全般的にやはり考えて我慢してきたことが悪かったとは思えないし、こうして書いていることで健常者とまったく変わらないという印象を持ってもらえることのほうが私はうれしい。ここに来て見てみないとわからないくらいのほうが私はイーブンにおつきあいできてうれしかったりします。そうでなくても毎日西さん他、リアルタイムでナマミが影響する問題点はあります。

直接言いたくないわけです:「私が不自由なのにどうしてわかってくれないの?」と。西さんは運転が散漫です。ついつい乗せてもらっているなら文句は言うべきではないのかもしれませんが、ブレーキが遅かったり、Bump(ブレーキを誘発するための凸面)があっても激しくブレーキを踏んでぼこっと乗っかります。車間距離が短ければやっぱり身体中が緊張して踏ん張るし、Bumpでは腰と足にずどーんと響くものがあって、身体が不愉快です。これはインスタントなものなので感情に支配されがちです。でもやっぱり多少考えて最初の数回は、「ねね、どうして黄色とか赤信号でアクセル踏んで近くなってから強いブレーキ踏むの?」とか「反復横飛びって覚えてる?あれは反射神経とは関係ないか?」とかって話してます。でもやっぱり何回も何回も続くとものすごく感情的になって我慢できなくなります。「どうしてブレーキをもっと緩やかに踏めないの?痛い」となり、まだそのあとも続くようだと「痛い」だけになり、まだこれでもかぁと続くようなら「どうして自分勝手なの?私が痛いって言っているのは無視するの?」になり、切れると「降りて。運転代わる」になっちゃいます。

アタマごなしに最初から怒っても意味が見出せないからこういういたちごっこしているのですが、他の問題点でも似たようなことをしています。それは私の自律と同じくらい他人の自律を尊重することなので、大切なプロセスであると思っています。

いきなり感情と感情をぶつけあって物事が悪くなることはたくさんあります。私は喜怒哀楽が病的なくらい激しい質なので、この自律という規範にいつも忠実でありたいと思うのです。そりゃたまには感情的なところも見せていいんでしょう。けれども私が俗っぽく愚痴を言うことで何か建設的だったことは数えるほどしかないです。自慢や疲れもそうです。平常心とのギャップに驚かれて下手ないさかいになったり、言われなくても抵抗感が返ってくるのを感じたり、「ん?どうして?普段言っていることと違うじゃない?」と責められてしまいます。

そりゃぁ、感情的になってるんだからさぁ、普段と違って当たり前でしょ。それを一生懸命理性でコントロールしようとトライしてるんだからさぁ。これ以上感情的になっても何も進められないし、悪態を見せて相手にいいことなんか何もないよ。そういうときはひたすら休むに限る。知的作業をやめて、食べて寝てコメディでも見て充電する。森のなかを散策したり、海辺をはだしで歩く。でも私にとって問題なのはこのタイミングだったりします。我慢をぎりぎりまでして、誤解を与えまくっているのだと。そして誤解が起きるたびに私が悪いと思い込むのももういやだなぁと思います。一度や二度じゃつかめないのかもしれませんが、他人のために自分の我慢や、理性と感情の境目コントロールのリズムを崩したほうがいいんだろうか?

ナマミの私をいくら伝えても、私がわからない私、これからどんどん変わって行くだろう私を、責任持ってとことん見守り続けていってくれるのは自分以外にはいないのじゃないか?と私は思うし、それがたいへんに自然でいいことであると思います。みんながみんな、自分に責任もてるようになったらこの世はましになる♪同じ質の愚痴を言うために集まる必要もなくなるし、違う質の自慢して自己満足を得るためにいばる必要もなくなるし、どんだけがんばったから疲れているかなんていう競争をする必要もなくなります。みーんな愚痴のひとつやふたつ言いたいし、言えるから友達なんて慰められてもまだまだ疑っています。

問題がある状態や、それに対処していく自分がそこにいることや、目標があってそれに邁進して自分をアジャストしていく変化の状況で、どんなに疲れても、どんなに憐憫や同情や共感が必要でも、どんなに自分を正当化したくても、最後までつきあうことができないのならば、他人にはできることがかなり少ないでしょう。これが私の言う、「自分にしかできない闘いの領域」であると思います。だから愚痴を愚痴だと流してくれないような関係ならそこまでで、私はもう愚痴は言ってはいけない、という規範~自律の元~を作ります。だって建設的じゃない表現しかできないんだから、それはもう愚痴以外の何者でもないわけで…。

そして愚痴や披露が少ないと人間味が希薄だと言われ、自慢ばかりしていると言われることになっていきます。いつかこれがエスカレートすると山にひとりでこもらなければいけなくなるかもしれません。うん、絶望的になったらそれもいいか…。

「自分にしかできない闘いの領域」、自分で決めた規範を守れなくなること、そりゃぁ私にもあります。アルコールを飲んだら炭水化物は摂らないなんていう決め事から、披露はするけど教えないとか、みんなと対等につきあうとか、ずぼら自慢はしないとか、問題点には根本的解決を求めるとか、まぁ、いろいろあります。破っては反省していますが、それを見せることがどういういいことがあるのか、丁寧に説明してもらえたらうれしいです。

他人に与える印象は自分が原因であるかもしれません。けれどもこういうジレンマまでわかってくれて言葉にしている人はそう多くはないと思います。だから人間味が希薄だとか言われても、スペンサーのように凛としていることが大切であると思いながら、それでも感情的な部分が苛立ちを覚えます。でもこういうことも、わからない人のロスであるのかもしれません。そういう人の数が多いからと言って、私や私と同じように自分を律する人のアタマがおかしいわけではないし、わからない人が間違っているとかおかしいわけでもないです。

これが私の言う「人間はひとりひとりユニークで特別で違う」というゆえんで、私が自分のことを特別扱いしていることだというイメージを持ってくれてもかまいません。私にはそういうつもりは一切ないし、私が自分を大切にするのと同様、ふれあう人すべてを特別な存在であるという認識の下におつきあいしていくために、繰り返し使わねばならない言葉であるからです。

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こんな想いから、スクールの名前は、Precious Oneとしました。かけがえのない1人、という意味です。

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