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見切りをつける

Dec 26, 2005 に書いた文章です。

 

見切り:見込みがないとして、あきらめること。みかぎること
見込み:将来についての予想。将来の可能性。
見限る:これ以上見込みがないと判断する。また、そうしてそれ以上相手にしない。

このところ、過干渉について再び考えています。

干渉:他人のことに立ち入って、口出しをしたり自分の考えを押しつけようとすること。

私ももともと過干渉な性質だったのか?とつらつら考えるに、「否、違う」という答えに行き着きました。そもそも、私は過干渉をしかけてきた人々に対して、大いなる防衛線を張り巡らし、そののち、どうしても折れない人々に、「じゃあね、聞いてよ」と攻撃をしてきたのだと思い至りました。大人になり、日々の行動や考え方に正解やうまくいくことが増えてくると、人々はそれらが他人にも通用するもの、という簡単なAssumption(推測)をします。自分にとってとてもよかったんだから、という善意でかなりの押しで、線を越えようとしてきます。

Blogエッセイのいいところは、かなり一方的な書き方をしているにも関わらず、一握りの読者はキープできることです。が、コメントやBBSに書き込みがない限り、私が自分自身の考え方を改めるチャンスに遭遇できません。が、私の幸いなところは、リアルと書いていることに誤差がほぼないので、リアルでのフィードバックがバンバンあることです。そこで改めたほうがいいと自分が判断したことはできるので、やはり正直コースに限るな、と実感しています。もしも、書いていることが飾り立てたことが過ぎたり、嘘ではないが書かないことが増えたりしたら、きっとバランスを失っていくのでしょう。私は、誰にでも自分のBlogのハイパーリンクを差し上げることができます。母や親戚にも連絡はしていますが、私の膨大な書き物の量を彼らに読むことはできないようです。活字中毒でない限り、日々を生活していくほうがずっと大切なので、それでいいのです。

昨日の占いやサイキックの話にも通じますが、私は幼い頃から、いつもほとんど、統計学の平均値から外れた項目ばかりを抱えて暮らしてきました。純然たる平均値に当てはまることは、性的嗜好がストレートであること、です。なかなか「そうだよねぇ」とは言ってもらえず、自分の居場所をいつも探してきたように思います。そしてUSに来て、非常にラクになったわけです。

幼い頃から、私は過干渉の嵐に遭遇していたわけです。「女の子なんだから・・・」「年齢らしく振舞えうんぬん・・・」「正しいことと悪いことの見分けがつかないのか・・・」「人に合わせるってことを学ばなければならない・・・」などなど、毎日いくつかのネガティブな過干渉を受けてきたわけです。思うに、よくも私は曲がらなかったなぁ、世をすねなかったなぁ、とつくづく感心するのです。子どもの頃は「ひどいおおげさな過干渉」と感じていた母は、「なんだよ、世の中の平均値から比べると彼女はとてもおおらかでかなり放置できる人だ」とも思えるようになりました。自分の口を自分で養うことができるようになってから、締め付けは軽減していきましたし、アメリカに来てしまったことで日々の過干渉から離れたせいもあります。

長い前置きになってしまったのですが、この「見切りをつける」というおこがましい語彙が私は嫌いですし、私の信念から外れたものです。私はいろいろな人たちから、見切られてきました。その回数や人数が増えるたびに、語調の波やタイミングに、私は自分の存在意義を深く疑問に思ったものです。私は誰も見切らないし、誰も見限らないのです。数年後や数十年の歳月と、個人がする努力や、社会全体の変化などで、人は変われるものです。さらに、その時のいわゆる「常識」がその頃になり通用するかどうかもわかりません。弊社の社員Sちゃんにもいつも理解してもらっていることですが、私は彼女が弊社に入る決意をしてくれた時点での能力で彼女を査定しておらず、可能性がある先の先まで見て行きたいと思っています。それが花開いたときに、まだ弊社で働いているようではダメです。踏み台にして、本来自分が心からやりたいことへの礎にしてもらえたら、と思って、今、いっしょに働いてもらっています。彼女が辞めたいという時期が来たら、私は歓んでLet Goし(見送り)ます。その時の彼女の実力がどうであれ、彼女が決めたことです。自分の意見だけは伝えますが、彼女が考えることで、決断は彼女にあります。だからと言って、私の意にそぐわないからとその先、おつきあいを断ってしまうものではありません。

過干渉をしてくる人たちというのは、正義や常識を大上段に構えて、「あなたのためを思って」「よかれと思って」と迫りますが、人はみな同じにはできていないのです。そして、その意にそぐわないと勝手に騒動を治めようとして、見切りをつける。離れていくわけです。

私が理系よりも文系に長けていると決め付けてくれた先生たちに、いまさら、私が何をしているかを伝えたいという無駄な気力はありませんし、ロクでもない男ったらしの不良を過ぎて社会の足を引っ張ると言った大人たちに、今の自分を見せたいとも思いません。その時点で、彼らのほうが私を見切ったわけですから、私の大切な成長具合を見るチャンスを自分から切り捨てたわけです。私は、彼らが今でも当時の正義や常識を大切に生きていけていることを望んでいます。人をうんと傷つけた分、因果応報な目に遭っていないか少し心配ではありますが、いいレッスンを私にくれた分、きっと何かいいことにも遭遇していてほしいと思います。私がかなり早くから「特別誰からも好かれなくてもいい。私がとても大切だと思える人から好かれるだけで満足」と思えるようになったのは、あの環境のおかげです。大きな宝物だったと今は思えます。

私も歳を食っていろいろな過干渉に見える意見を述べてきたと思いますが、大きく違うところは;見切りをつけない、最終的判断は本人に一切任せる、その判断によりおつきあいを左右させない、の3点です。ある物事が自分にとってfit(ぴったり合う)するかどうかは、本当にその本人にしかわかりません。誰かにとって行過ぎたと見える表現でも、Picassoのような例があり、彼は生きているうちに名も実も残せた画家ですし、例を挙げればキリがありません。

私はどんなに努力しても、どうしても平均値に収まる範囲で物事をこなすことができませんでした。今、必要だと思えなかった勉強を若い頃しなかった結果、平均値から大きくかけ離れた年代で、長い時間学生を続ける羽目になりました。それは今、私にとてもよく作用しています。料理も家を出て渡米するまでまったくなかったのですが、必要に迫られて短期間でいろいろな料理ができるようになりました。

先回りして他人のために「いい道」「ラクな道」「正しい道」を考えてあげるのは、いいことではないと、私は今でも思っています。それがたとえ自分の肉親であれ、パートナーであれ、彼らのタイミングやスピードは違うのです。それが証拠に、ベルリンの壁も壊されました。テロリズムも変化を見せています。我が家のネコたちも学習を続けています。見切りをつけないことで、楽しいことはきっと増えていくはずです。

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