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言葉の暴力―発信する側として

08/29/2006 にアップした文章です。

 

コレ、「言葉の暴力」と子どもだった私にわかるように変えていたものの、私がおそらく7歳くらいからずっと言われ続けてきたことです。つい先月も母に言われた気がします(爆)。私はその気になれば、たいへんに口が立つ。

母の口数が多くなったのは、対人恐怖症が緩やかになってからですので、彼女が30代に突入した頃です。その差はやはり蓄積すると大きなものなのではないかと思います。今は口数が多いし、もともと明るくのんきで楽観的なところが多いので、他人を言葉の暴力で傷つけることはほぼありません。私が彼女に傷つけられたと思ってきたのは、「悪意のある悪口や罵倒」ではなく、「考えなしに簡単に出る言葉たち」であり、暴力の範疇に入るのかどうか、微妙なところです。

西さんは鹿児島の風土で生まれ育ったので、18歳までの鹿児島で暮らした文化がどこかしら染み付いているところがあり、「寡黙」「無駄口は叩かない」に美徳を置いているところがあります。アメリカに来て多少その考えも変わったのですが、やはり無駄口は圧倒的に少ない。それは文章を見ていてもわかります。そのために、充分な説明をせず、仕事や人間関係でも「推測」「思いやりによる相手への下駄預け」などは目立ちます。そのせいか、西さんが怒りという感情を醸し出した言葉を吐くと、たいへんな暴力に聞こえます。色気と同じで、ギャップなんだよね、こういうのって。清楚な女の子がほんのわずか、決まった相手にだけ淫らになると、ものすごく色っぽいと受け止められるのと同じ。そんなときは、私のほうが身体が震えてくるほどに衝撃が走ります。が、そんなことも16年?17年?のあいだに数度しかなく、喜怒哀楽自体を会話の中にそれほど決定的に織り込まないのが、西さんの常です。

私の口調はバラエティに富んでおり、振幅の差が激しい。怒っているときには相手を泣かせることくらいは平気でできてしまいますし、褒め殺しをしているつもりはなくとも、ある人が他の誰からも褒められたことがないが褒められたかったことをピンポイントして泣かせてしまうことがあります。通常の会話でも、私の声のトーンの強弱は効果的に使われており、ストレス(強調)を効かせたい単語や、言葉の継ぎ目や、呼吸の置き方やボリュームや高低などで、たいへんに喜怒哀楽を表すことになってしまっています。誰かの行動に対しての苛立ちを顕すときにも、「ん?」という問いかけから、「どうして?」「なぜ?」「なんでそうなるの?」「どうしてかわからないけど、なんでなの?」とたくさんバラエティがあり、受け止めるほうが敏感であれば、そのトーンはかなりのシグナルになっていると思われます。

いつから身についたのか?コレは本当に謎なのです。父が厳しく、母が引っ込み思案で、祖母やその内縁の夫、叔父や叔母が同居していた時期に、私は赤ちゃんから小学校に上がる頃までを過ごすのですが、そのバラエティのある相手たちに、幼稚園や外で遊ぶことやご近所つきあいも含めて、言葉による自分の表現を身につけたに違いないのです。当時から、18ヶ月違いの弟をいじめていたので、母は心配して、カセットテープに私の会話を録音することになります。今聴いてもかなり笑えるのですが、ジョークの種としてではなく、6・7歳の子どもなのに、よくもこれだけの抑揚やバラエティ、トーンやボリューム、ピッチの高低などを持っていたなぁ、と、過去の自分にやたらと感心するわけです。動機は一体何だったのか?サバイバルはもちろんのこととしても、やはり大勢の中の自分をアピールするためや、感情の波を平均値に持っていくためや、自分の主張をはっきりさせたり、他人を理解するためだったことは、ボロボロになったカセットテープからも伺えます。

ということは、私は未だに他人に対して、優しくすることもできれば、言葉の暴力で打ちのめしてしまえるキャパも持っていることになり、その後、バイトをいくつも掛け持ちしたり、アメリカに来てしまったり、使用言語が増えたりしたことや、知恵がついたことも含め、ネガティブのほうの言葉の暴力をFull brown(最大限発揮させる)可能性までも拡張したことになります。特に、アメリカでのDebateの仕方を身につけてしまったことや、エッセイの論理的な書き方など、武器になるものはまた増えてしまったわけです。

それは、大げさに言えば、核兵器を持ってしまったのと同様になるのではないのか?と、謙虚に考えているわけです。

こんな例を使うのは、たいへんにおこがましいのは重々承知です。Einsteinのような天才が、人類に画期的な科学を見つけ出し、どのように人類全体に応用していくのか?をヨロコビながらも、実際には悪用する人々がいる、と杞憂するのとは比較にもならない、まったくスケールの小さいことです。が、私近辺の世界ではとても重要な問題なわけです。

たとえば、車を便利に使うか、凶器と化してしまうのかに似ている。

たとえば、ネットを情報収集に上手に使うか、ポルノを集めたり集団自殺したりするのに使うかに似ている。

たとえば、携帯を約束のバックアップに使うか、待ち合わせをしても言い訳がすぐに出来て時間に遅れても平然としていられるのに似ている。

(キリがないのでこのへんで・・・笑)

この言葉の暴力と言論の暴力が行使できる能力の幅が、自分は広いと気づけることがまず大切。その後、どのように使おうか、しっかり考えて選び抜くことが自分の意志によりできるかどうかが大切。

酔っ払い法則というのがあり、「酔った勢いで言ったことは本気にしない、水に流す」などがあります。実際のところはどうなんでしょうか?二通りの意見があります。「酔って言うことなのだから本音が多い派」と「酔って言うことなのだからいい加減なことが多い派」。が、その二通りを自分の都合がいいときにごっちゃに使っている場合もよく見られます。

私も自分の言葉や言論を組み立てられる論理性の暴力に対して、細心の注意を払っているつもりでいるのですが、人間関係の中ではうまく行かないことが多い。どうしても私の言葉のバラエティや論理のバラエティを「山のお天気みたいにすぐ変わる」とみなす人たちもいるわけです。が、実際には山の近辺のお天気であっても法則性があることを、山のふもとに住んでいる人々や気象士は知っています。私が言い訳を極力避けているのは、ふもとに住んでいる人や気象士ばかりではないことを知っているためで、それ以上の理詰めでは何もならないことが多いからです。

くれぐれも、黙っていることはまったく苦痛ではありません。古館伊知郎などは、黙っていることが苦痛なのだと言っていましたが、私は黙っていることはまったく大丈夫です。それでも、相手や場所や話している対象やその他の要因により、言葉の暴力と受け止めかねない表現や伝え方をしていることは、本当に心からよくわかっています。が、考え抜いた挙句、必要だと思うこともあり、まったくの衝動や気分や無意識のこともあり、日々まだまだ修行中。

こうして一番の生贄(いけにえ)になっているのが、西さんで、よくもまぁ、16・7年も続いたなぁ、と思うのです。母に至ってはこの娘が話せるようになってからを数えても40年近くが経っています。辛抱が耐え難いピークを迎えた私の10代のとき、母は毎日泣いていたかもしれません。

こうして、言葉の暴力を発信する側として、反省しつつ、今度は受ける側としてのことを書いてみたいと思います。

 

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