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諦め(あきらめ)の学習

12/01/2006 にアップした文章です。

 

いやー、最近なぜ私が根強いやつなのかわかってきました。ひとつのでっかい要因は、「まともな会社勤めをしていないこと」です。なぜかというと、起業をし、日本に戻ってきてはや3ヶ月経とうとしており、相当に「諦めること」を学習させられている気分なのですよ。コレって自分で体験してみて、本当にダメージが大きいものだということがわかります。しかし、私はまだ諦めの学習はできていないようで、コレがダメならアレなどと、日々やっているのです。でもアレラにも限度があるかもしれず、尽きてしまったらきっと学習は固定化してしまうのだろうな、と・・・。

諦める:望んでいたことの実現が不可能であることを認めて、望みを捨てる。断念する。思い切る。

夢、ほど大きくないとしても、望んでいたことが見事に砕け散るってぇのはつらいもんです。私の体験の原型は、弟が生まれてスキンシップが急激に減ったことかもしれません。それ以来、アノ手コノ手を考えつくようになったので、まぁ、それはいいことでした。「起き上がりこぼしの第一歩」と呼んでみます。

学習のプロセスの中で学ぶものなのですが、「諦めることを学ぶこと」を英語でLearned helplessness ; 学んでしまった無力感と私は呼んで来ましたが、学習性無力感と日本語では訳されているようです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F 私が「学んでしまった」と表現するのは、環境からの要因(複数の場合がほとんど)に負けてしまっていることすら意識していないで、いつのまにか身につけてしまっていることのほうが、圧倒的に多いからです。

ここにあるように、虐待やDVなどのわかりやすいものだけではなく、言葉の暴力やネガティブな口癖への露出や、毎年起きる運動会での屈辱感なども入る広義なものだと捉えてもらうほうが、きっと理解しやすいです。条件としては; 1. 一度きりの環境要因(個体にとってネガティブなことを受け、ネガティブな結果が生まれる)ではなく、繰り返されること。2.まったく同じ形を取らずとも、自己を評価する際に、マイナス値になる働きかけを生じるような、外的要因に繰り返し曝されていること。が、『何をしても無駄』という学習を完成させます。

私はTrial and Error (トライして失敗する)の繰り返しを是としているのですが、あまりに追い詰められると、諦めることを学習してしまい、次に似たような状況を個体が呼び起こすと、そこから何も生まれなくなるわけです。

何度も何度も同じことをガミガミ言う奥さんに、だんなさんが耳をふさいでしまい、何も解決しようとしないのも同じ仕組みです。お母さんの言うことを全面的に聞いてしまう子どもたちも同じです。自分の望みと裏腹であっても、甘んじてそれを受け続けることが、この学習性無力感です。こうして、広範囲に広げると、たくさんの人々が、自分なりの「学習性無力感」を持っていることになります。

私はどうか?集団相手におおっぴらにケンカしない、ってのが私のソレです。政治や行政について、自分の意見はきっちり持つし、言っていい場では言うけれども、テロ行為をしてもしゃーないし、お金や時間や情熱をどのくらい割けるのかはわかっているので、あんまり努力していないように見えると思います。あとは、禁煙もそれに当てはまるし、絵画などの美術に関して自分で学ぶことも、他の事項に比べると諦め度は大きいものです。

でも、全般的に私は「活路」を信じており、段階的にコレもアレもやろうとはしているんですけどね・・・。私のバカさ加減は、21歳まで父親に殴られ続けたことです。「もー、やめろ」「何言っても変わらない」と、周囲のほぼすべての人たちに言われ続けてきましたが、私は学べなかった(爆)。「暴力なんかで私の意見や心は変わらない」と、殴られ続けても貫いてきました。が、年を経て、老成したのかどうなのか、父は変わった。誰も殴ることがなくなり、人の意見をしっかり聞くことができるようになり、屁理屈が減り、「仏様みたいだね」と言われながら死んでいきました。続けた甲斐がここには大いにありました。

そんなこともあり、PTSDは大きな穴でした。私はこういうところにしつこいので、「ほぼ絶対に変わらないであろう相手」にチャンスをあげすぎてしまうようです。自分を責めることも多く、大きく、相手だけが悪いわけではない、と逃げることをよしとしないので、あくまで無力感を避けようとしすぎた結果、実際は学習を進めてしまい、事実上の無力に成り下がっていったわけです。その呪縛・悪循環から抜けるのはたいへんでしたが、めでたく今日(こんにち)を迎えることができて、たいへん感謝しています。

日本に戻ってきてつくづく感じているのは、「繰り返しへの露出」の数の多さ。カリフォルニアにいたときには、「傾向」がつかめないくらいの数の、ある分野においての選択肢があったのです。が、日本ではその少なさを感じる。流行が傾向になっており、その時流に乗らされそうになるってぇのか・・・。まだ気づいてしまっているうちは、それが苦痛で苦痛で仕方がない。それに抵抗するのがけっこうたいへんになってしまい、「諦めの学習」をしなければならなくなりそげで・・・。TVには簡単にソレが顕れており、ネットでも検索エンジンでソレがわかる。街を歩いていても、服装や所持品でソレがわかり、本屋やその他お店でもわかる。レアものを探す努力をしなければ、その圧倒的多数・主流に負けそうになるのよ・・・。そもそも好きではなかったとしても、我慢→許容→馴れ→受容→好きになると段階的に連れ込まれてしまっているような気がしてしまう。

それは、人と人との話術でも同じで、どんな物事を話していても、相手が繰り返し言うことや、強く言うことで、露出されていき、反対する気力が挫けていくような・・・。ガミガミ言われてしまうと抵抗したくなくなり、その気力が失せていくのと似ている。

誰かが仕事で、しっかり期限のある約束をしておきつつも、それを許容するようになってしまい、馴れてしまい、「ああそういう仕事の質だもんな」となぜか理由まで考えてあげてしまい・・・。メールの返事が来なくても、挨拶がなくても、となっていくわけです。そもそも「諦めること」が不得手だったはずの私が、ここまでげんなりしているわけなので、そもそもそうではない受容型の性質を持つ人たちは、簡単に染まるのかなぁ、などと考えています。

せめても、と、100%諦めることなく、ブログに、夢や希望や理想を書いてみたり、自分の夢や希望や理想を阻む物事や人々に対しての悪口や愚痴を言ってみたり、というのが増えるのも、なんだか納得できてしまうのでした←納得していいんだろうかな?とも思うんだけれども・・・。直接本人に言うのも、相当な気力が必要です。たとえば、TVでのクイズで見識を披露したり情報提供する目的よりも、バカさ加減をおもしろおかしくエンターテイメントにしているものが多い。TV局に訴えたところでどうにかなるものなのかどうか・・・と諦めてしまうのね・・・。

そこで、文化的全体主義の多数決使いについて、またもや壁にぶち当たった気分がしているところです。ふぅ。

 

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