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輪廻転生(1)

輪廻:1.車輪が回転してきわまりないように、衆生が三界六道に迷いの生死をかさねてとどまることのないこと。迷いの世界を生きかわり死にかわること。流転。輪転。
2.同じことを繰り返すこと。どうどうめぐり。
3.執着心の深いこと。

転生:生まれ変わること。

世界観のエッセンスとして、生死についてどのような価値観を持っているのかを自分について知るのはおもしろいことです。私が初めて人間の死を目の当たりにしたのが母の母であった祖母の死で、6歳でした。「存在しない」という事実が胸のなかに入ってきて、大きなVoid(虚空・空隙)ができ、どうしてもそれを埋めることができないことを初体験しました。それまでは父であれ母であれ、できないこと・わからないことがあってもそれなりの答えをいっしょに見つけてくれたり、それなりのアドバイスやら説明やらをしてくれたものです。しかし、彼らにもこれについては私が納得できるような答えを持っておらず、母などは泣いて暮らしていたものです。彼女が泣くたびに私も連鎖で泣きはじめ、弟が先に寝た六畳間で歌を唄ってみたり、折り紙をしてみたり、翌日のお洋服を揃えてみたりしたあと、最後にふたりして「電気つけたまま寝ようか?」とまた泣き疲れて眠る、という日々が続いたものです。

祖母以前にも、すずめや金魚が死ぬのに遭遇していたのですが、6歳前であった私にはどのすずめもどの金魚も双子みたいなものでした。「天国に行ってから戻ってくるよ」と父や母に言われたときにまたすずめや金魚を見かけると、「あ、ぴぃちゃんみたい。ぴぃちゃんだよね?」と舞い戻ってきたすずめや金魚に対しての納得ができてしまったわけです。そりゃそうだよねぇ。今だってすずめや金魚の人相(?)を真剣に見分けることなんかできないもん…(汗)。

けれども人間が舞い戻ってきたところを、父も母も見たことがないと言いました。いつ戻ってくるかもわからないし、戻ってこないのかもしれないとも言いました。それは衝撃的な恐怖でした。「いつかパパもママもかずくんも私もこの世から消えてなくなっちゃうかもしれないんだ…」と。

母が私に教えてくれたのは、「考えないようにすること」でした。“Gone With The Wind”(風と共に去りぬ)ではないのですが、母は「明日考えよう」と言うのが口癖でした。「今考えても疲れ果てていて何も考えられないから、また眠ってから考える」という意味ではなかったような気がします。だって、母はフィジカルにとてもタフな人でした。当時32歳になったばかりの彼女は、どんなに働いてクタクタでも一晩中起きていることが可能だったし、言葉じりを取るわけではなく、実際に明日になって考えたときに心が軽くなっていたわけでもないような気がします。けれどもその母の現実逃避への限界点と、楽天さを、見せてもらうことで私は世界観の第一歩を培ったのだと思います。

小犬や小猫やちゃぼやカエルやあらゆる動物を拾ってきたときに、母にたしなめられたのはまず、「生き物はそんなに簡単じゃないのよ」でした。そのあとに「おねえちゃん(私、長女ですから・笑)がごはんをあげるのを忘れたら死んじゃうかもしれないのよ」と。それでも「おねがいします、おねがいします。ちゃんとごはんをあげますから」と誓う私に、毎度まいど「飼ってもいい」とは言えなかったでしょう。動物園じゃないんだからねぇ…。けれどもなぜか家には動物が必ず存在していました。

なぜ死なれても死なれても懲りなかったのでしょう。今でも懲りていない模様…(爆)>ネコ3人同居してますからねぇ。

キリスト教を敬虔に信仰している人には輪廻を信じない人が多い、と短絡的に私は考えていたような愚かなところがありました。日曜学校で何か大きな世界観の問題にぶち当たるたびに、質問を最後にしていたのがシスターたちだったからです。そりゃぁ、彼女たちは教理に矛盾した考えを披露できないし、もしも信じていなかったら帰依してシスターフッドに入るわけはありません。けれども子どもだった私は「答えが明確にないこと」を、至って平凡にエキスパートの権威にすがっていました。すがってみたものの、どうもそれでは納得せずにVoidを埋めることがないままに来ました。

そのVoidを考えるときに、少し明るめであると工事中のおじさんや虫歯のばい菌たちが火山口のような深い穴に立ち向かって修復作業しているところを思い浮かべていましたね。コンクリトラックや圧搾機までなぜか登場して、私のVoidに彼らは何を埋め込んでいたのでしょう。けれどもそのカケラたちがあるからこそ、今の私がいるのは納得します。そして今でもまだまだ明るい想像をするときには、工事中のおじさんは紫のニッカーボッカーを履いて登場しますし、それが日本人でなかったりすることもあり、この初歩的な連想ゲームは未だに続いています(爆)。ただそれがなぜか果てしないカジノのような背景でブラックジャックをしている肉体労働派な人々であったり(なぜかテーブルの真ん中にVoidがあるんだねぇ)、広くて見渡す限り花が咲き乱れている野原の真ん中に隠れているVoidであったりと、夢想にはたくさんのバージョンがあります。

こういうののことは、「三つ子の魂百までも」とは言わないんだろうね…(汗)。

実際に「輪廻がなければ、生命というエナジーに天国と地獄は満ち溢れてしまうよなぁ」という疑問には、天国と地獄というコンセプトは遠くはないんだけど正確ではないと説明してくれたあとで、神の創造した場所はそんなに狭いものじゃない、と言われるとどうも「そうかもしれないねぇ」とも未だに思います。自分のアタマのなかで考えていることがどうして現実ではない、と言い切れるのかさえなーんの手がかりもない状態なので(触れないとか見えないものでも存在するものはあるしねぇ>空気・笑)、あるかもしれない可能性はまっこうから否定できないです。

けれども自分のDue(ツケ・支払・期限)が終わったら天国から衆生をただ見ているだけだっていうのも、かなり天国に行けた人にしては不親切であるなぁとも思うのですね。「トントン、天国は必ずありますからがんばってね」という奇跡がみんなに見えるとかなりラクなんですが、信じない人には見えないってわけなんでしょうか?見れなくてもいいから手応えってもんはないでしょうかねぇ。うーん、やっぱりここでまだまだ見るとか触るとか、感覚器官に頼っているナマミが哀しい…(汗)。

しかも全知全能の神がこの世のなかの苦しみをもすべて操作できるはずのに、核戦争や化学兵器戦争まで放置しているっていうのはどうしてなのか。因果応報ってことなんだろうか?でも直接的にどのくらい関与した人がそのツケをしっかり払っていて、まったく何も始めていない赤ちゃんや子どもや動物まで殺されるような羽目になるのはどうしてなんだろうか?と考えるともうアタマがぐるぐるになっちゃいますね。↑こういう考え方がまだまだ凡人であるからなんでしょうなぁ…。

がんばり方がもしも間違っていたのだとしたら、どうしてみんなにセカンドチャンスがないんだろうとも思えます。私はラッキーだったのでたくさんいろいろなことでセカンドチャンスを与えてもらってよかったなぁと感謝しているのですが、明かにセカンドチャンスがないままに死んでいく理由のないこともたくさん目にします(ああ、まだ目にしていることを問題にしているからいけないのか?苦笑)。たくさんの冤罪もそうです。人間のシステムで裁かれて間違いがあったときに、神はきちんとその加護を与えてくれているんでしょうか?生きたまま鬼のように「目には目を」っていうのはあと何万年、人類に続く感情なんでしょうか?ハルマゲドンが来れば終わっちゃうのかなぁ。人類すべてが試されていて、「目には目を」を信じない人も、五人組制度と同じで連帯責任取って滅亡しなくちゃいけないんだろうかなぁ。

こういうことを考えているから「無」になれないんだな、私。アタマがパチパチがちゃがちゃ動きまくることになります。少しはアタマを休ませないとオーバーヒートしちゃうかもしれないと思いつつ、たくさん眠ろうと努力してみるわけです。

けれどもこのひとりの人間のどうどうめぐりを考えてみると、もしかするとこの世とかあの世とか全部ひっくるめても、すべてが大きな大きなどうどうめぐりなのかもしれない、と今のところは考えています。天使が現われたり奇跡を見るような衝撃的なことが今までありませんでした。この先も信じないモノである私に訪れるかどうかはわかりません。なので、まだこのどうどうめぐりは続きます♪

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