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道を説く君

2006-04-14にアップした文章です。

やは肌の熱き血潮に触れもせず さみしがらずや道を説く君

与謝野晶子

真理を突いているなぁ、といつも感心するのですが、今日は恋愛のお話ではなく、宗教のお話です。人が宗教を持つのは自由であり、多くの国の憲法で保証されていますが、がゆえに、自分の立場を優位にしたいがため、自分が選んだ宗教をやたらと正当化し、押し付けてくる人々がいます。

私個人の宗教歴史はとてもいい加減なもので、がゆえに、今もどの宗教などと選べず、さらにどれも否定しません。何かを選ぶということは、他の何かを捨て去るということなので、私はそれをしないずるさ、諸刃の剣のもう片側の賢さを持っています。がゆえに、クリスマスや謝肉祭や復活祭、花まつりやお盆などなど、宗教的な儀式やイベントは、極力祝うこともなく、人々が祝っているところを傍観者のようにじっと黙って見ていることが多いです。商業的なものは、軽蔑すらしますが、それは宗教とはかけ離れた一人歩きのほうがずっと多いのでしょう。

父の実家は、17代続いているこじんまりした田舎の神社です。長男である叔父の代までは、熱田神宮での修行がありましたが、私の従兄弟の代からは、国学院の神道学科を卒業することでその肩代わりをしています。物心ついた頃から、家に神棚があることは当然で、食事の前には神棚にごはんを奉るのが当然だったので、私は幼い頃からHigher Powerは信じていました。さらに、神道のおおらかさは、ヒトであっても死んだら神になれるという大雑把な楽観性。私はそれに大きく影響されてきたのかもしれません。

幼稚園は、長久寺学園という名のついた、仏教の幼稚園でした。ひぇぇぇぇ、Web 情報があるよぉぉぉ。びっくりしている(笑)。

https://www2.kosodate.mitaka.ne.jp/youchien/chokyuji/mitaka-chokyuji.html

http://www.shougai.city.mitaka.tokyo.jp/mitaka/tekuteku1999/d_data/d_0020.html


この本堂で花まつりのときは甘茶を飲んだ記憶あり。けっこう由来があったんだなぁ。当時は知らなかったよ(笑)。真言宗のようなので、私が合気道を自分の武道として選んだのとも、それほど矛盾した点がなかったんだなぁ、とちょっと謎が解けた感じ・・・。

ここで、盆踊りを習ったり、竹やぶに面した遊び場で、タイヤやトーテムポールで遊んだりして、私は勉強しない子どもになっていきました。

そして、小学校4年で、日曜日に日曜学校に通いはじめるわけです。それがここ。いやー、あるよあるよ、Web情報・・・。

http://www.seibi.ac.jp/college/student/is/002/site/sitemap_f.html

私が通っていた当時には、区官長として、イタリア人のシスターが園長を兼任しており、そのせいもあって、私は白人免疫がありました。幼い頃遊んだマイクちゃんとナオミちゃんもハーフでしたし。2つ下の学年には、林家木久蔵の娘がおり、お父さんもお迎えによく来ていました。私は熱心だと褒められ、富士山五合目にあるマリア像まで連れていってもらったこともあり、洗礼を受けないか?とも言われました。ラテン語の歌もまだいくつか歌えますし、新約聖書ならば記憶している部分もかなりあります。イヤイヤやったわけではなく、どこかで、神道と仏教の違いをわかりながら、好奇心で学んでいた感じで、押し付けられたことは何もありませんでした。

中学1年で部活動を始めて通わなくなったのですが、それ以降、私は団体にからめとられた宗教に触れたことは、たまにしかありません。

たとえば、友人の創価学会のミーティングに出かけてみたり、チベット教の曼荼羅を見に出かけたり、などで、真剣にのめりこむことは何もありませんでした。

映画も、アメリカに来るまでわずか10本ちょっとしか劇場では見ていないので、小学校6年生まで+の知識と、その後、読書をしたことで得た知識だけが、私の宗教生活です。それでも、やはり、私は何も選ばなかったのです。

ひとつの宗教を選んで、強く敬虔に暮らしている人々のうち、宗教だけではなく、自然と社会の法則性を大いに反映する生物学や物理や化学などを含め、すべてを丸く基本的に理解したあとに、他宗教を排斥できてしまう人は、宗教を頼りに生きることの大いなる意義を無駄にしています。なぜ、優位性を語らなければならぬのか?証明しきれないものを、なぜ他人に「真実」として理解させようとするのか?このへんの強制力は理解できかねぬところです。私が強く信じることについて、他人を説得させようとする場合、私は根拠や証拠がなければ、到底言い出すことすらできないです・・・。

締め付けを自分でするからどんどんつらくなる。コレは母を見ていて正反対だな、と思うのです。彼女は無宗教もいいところで、そのくせ、父や先祖のお墓参りやお線香は欠かしません。自分を生かしてくれてきた人々に対しての感謝ができなくなったら、もう死んだほうがいいと言います。彼女は、締め付けをしない緩やかな分、とにかく自分の頭をぶんぶんやっているハエだけを確実に狙っている感じ。

よそでも書いたことですが、他人に道を説くよりは、自分が高潔にモラル高く、心からの倖せを感じれば、それをみんながやれば、世界全体の倖せ度は上がるわけです。他人に道を説くよりは、他人に倖せを感染させ、披露し、微笑んでいることが有効でしょう。1日1つくらいのいいことをし、気分がいい原子が、ビビビビと空気を震わせて、どんどん繋がっていくくらいなことで、よしと思えないものか・・・。

私はよしと思っています。私が愛する人々がなるべく倖せになってほしいと願いながらも、彼らの決断に対して道を説くことはしたいと思えないし、他人の責任を肩代わりしてあげることも到底できません。できないなら最初から引き受けないわけです。本人がその気になるタイミングを待てる気長さを私は持っており、人々がそれぞれ違うことをよく理解しており、正解などがないことをよくわかっているがゆえ、宗教の名の下であっても、道を説く人々には懐疑心です。

柔肌をエンジョイしつつ、道は自分に説いておけ。

コレが私のテイクですね・・・。

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