英語の前に日本語 ⑥新しい考え方や発想を、受け容れることができるか?
心理学にBig5という性格モデルがある。このうち開放性:Openness to Experienceは、新しい考え方、価値観、体験に対してどれだけ好奇心を持って向き合えるかを示す指標だ。
開放性が高い人は、知的好奇心が強く、異質なものに触れることを楽しむ。開放性が低いまま異文化コミュニケーションに臨むと、相手の発想が「自分を否定するもの」として処理されやすくなる。私がよく言うところの、「そう来たか!」という楽しいオドロキ!
Big5の中でも、私はこれだけは高いほうが本人が「生き易い」方向になるんじゃないかと信じているもので、これを私個人はイチバン最初に観るなぁと常々思っている。なぜならば、新しいものに触れる機会数が同じであっても、開放性が高いほうが行動に繋がりやすく、自分の望む自分により近づける可能性も高まる。欲することに自分の意識が行くことは必定で、Self-verification biasが働くからなんだけど、そうなると固定化に繋がるんだよね・・・。
Self-verification bias:特定の種類の確証バイアスであり、個人が無意識のうちに、自身の既存の自己像を裏付ける情報を探し求め、解釈し、記憶する傾向を指す。
「自分を否定された気持ち」になるのはなぜか。新しい考え方を提示されたとき、「相手の方が正しいかもしれない」という可能性が浮かぶと、今まで自分が信じてきたものを否定されたような感覚が生まれる。これは認知的不協和と呼ばれる状態だ。この認知的不協和というのは、Social Psychologyの中では一位二位を表すほどの重要概念。
認知的不調和:自分の考えや信念と、実際の行動や得られた情報に矛盾が生じた際に感じる心理的な不快感やストレスのこと。
たとえば、買い物後に、「本当にこんな高いもの買ってよかったんだろうか?」と疑念が生じたときに、「将来的に価値がもっとあがる」「私というニンゲンを表す必須アイテム」「人気があるんだから間違いない」などという理由を探して自分を正当化するんだよね。ストレスから逃げたいから。
でも、これは誤作動であって、世の中にはたくさんの違いがある。そんなこと知ってるはずなのに、なかなか認められない。新しい発想を受け容れることは、古い自分を捨てることではない。今の自分の地図に、新しい道を一本加えることで、選択肢を増やすこと。あるいは、その目盛りを正確に測り始めて、実際にはその誤差のどこが受け容れられてどこがどうしてダメなのか、検討する機会。バラエティをたくさん持てるようになり、1種類の行動ではなくなるっていう武器になりやすいんだけどね・・・。そう思えるかどうか、かな。
たとえば、買い物そのものに対する儀式を決めるとか(買うことを決定するまでの)、買ってからの使用頻度やその他をちゃんと解析するとか、自分の心の指数をきっちり意識化しつつ使ってみるとか?損得勘定だけではなく、自分の美徳:Virtueに叶った、沿ったものなのかっていうのはでっかいよね。買い物をなるべくしないっていうチョイスだってある。
英語圏の文化的発想は、日本のそれとかなり異なる部分がある。その背景にある価値観を受け容れる開放性がないと、英語の表面だけを覚えて中身が入ってこない状態になる。言葉は文化のひとつのカテゴリー。実際に教育・宗教・政治形態・家族環境・労働概念・人間関係などなど、いろいろなものが文化を構成している。それらを表すツールの強いひとつとして言語が存在する。
だからこそ、日本語を英語にそのまま訳してしまったり、英語を日本語にそのまま訳すことは危険すぎるわけです。相手を思いやれないことが増える・・・。あなたが認めてもらいたいのは、仕事をがんばったことであって、長く、長時間や何年も働いていることではないと思うんだよね、みたいな誤差が出る。
開放性は後天的に育てられる。新しいものに触れる頻度を増やすこと、自分と違う意見の人の話をとにかく最後まで聞くこと——この2つだけでも、開放性の筋肉は少しずつ鍛えられるんだけど、実際、ニンゲンは毎日習慣にかなり左右されているので、なかなか新しいものに出遭えない。たとえばコンビニに行って新商品に出遭う確率は?必ず手に取れますか?あるいは気づくことすらできないかもしれない・・・。小さいことだから。でもね、その小さい目盛りを自分でコントロールすることができるようになると、何をマスターするにも速い&早い。英語もそのうちのひとつ。
開放性が低いままで英語を学ぶよりは、高くなってほしいと願うのでした。どうでしょう、あなたの開放性?





