「量と質、どちらが大事か」という問いは、あまり意味がない。本当の問いは「どの段階で量が必要で、どの段階で質が問われるか」だ。順序を間違えると、どちらも機能しない。

自分の読書歴を振り返ると、この順番がはっきり見える。子どもの頃に図書館通いをした。なぜか?私の友だちはみな習い事に行っていた子が多かったんだけれども、私は行けなかったから。小学校5年生になって初めて書道に週1回だけ通って、そのあと小金井まで自転車で合気道に通うことになるんだけど、どちらもお月謝が500円だったから>爆発的に当時であっても安かったからってことが始められたきっかけ。なので、私は近所の珠算塾やピアノ、絵画などに通う子たちを傍目に、ひとりになると図書館に通っていたのだった。

その回数は半端なく(笑)、週に数回のこともあったしね。しかも大人と違って子どもの本の貸出期間は当時短かったのだよ・・・。1週間くらいかな。今は大人も子どもも2週間になっています>調布市。しかも冊数の制限もあって、今は大人子ども変わらず20点までなんだけど、昔はなんと3冊だったのよーう(笑)。びっくりだよね?たぶんね、これは子どもがひとりで行って、時間つぶしをするっていう想定だったと思うんだよね。だって、当時、児童相談所なんてあってないようなものだったし、共稼ぎの家庭は少なかったし、共稼ぎであってもお母さんは学校が終わったら家にいるって家庭も多かったし・・・。

そして私は自然と冊数をこなして読める、量を先んじる子どもとなって、経験はそこで培った。もちろん読むスピードがものすごく速くなっていって、質に関して分類ができるようになっていくのだった・・・。

量を読むことで得られるのは、知識の蓄積だけではない。異なる文脈に同じ原理が繰り返し現れることへの気づき、観察力と、それらの違った表現をどう捉えるか?という抽象化能力だ。ある概念が分野をまたいで何度も現れると、人はその概念を「普遍的な法則」として内面化できる。これは多読なしにはなかなか起きない現象だ。

もしかすると、人付き合いの中でこの抽象化能力を築いていけると思っている人は多いのかもしれないけれど、実際、ニンゲンのナマミは物理的なものの制約が大きい。時間・お金・その他スケジュールのやるべきこと、などなど。だから、なかなか読書で得た汎用的な知識とは同列にはならないんだよね。

一方、質の高い読書がもたらすのは、共感力や認知機能の向上だ。JMU大学が2024年に発表した研究でも、この効果が示されている。量と質はトレードオフの関係ではない。量が、質的な理解のための土台を作る段階が確かにある。多読が精読の土台になるという考え方は、語学教育や読書教育の領域でも広く支持されている。

料理に例えるとわかりやすい。食材をたくさん知ることと、一つの食材を深く味わうことは、まったく別の経験だ。両方できて初めて、本当の料理ができる。読書も同じで、広く読んだ経験がなければ、深く読んだときの「深さ」を実感することすらできない。

これは英語学習にもそのまま当てはまる。多読で英語のパターンを脳に刷り込んだ上で、精読で深く理解する。この順番が大事だ。最初から「正確に読もう」とすると量が確保できず、土台のないまま質だけを求めることになる。英語でも日本語でも、読書の本質は変わらない。

日本語でこの順番ができているのであれば、英語をたくさん読む必要あると思う?実はさほどないんだよね・・・。(・_・;) それに気づいている人はどれくらいいるんだろう?不思議とごくごく少数なんだよねぇ。(◎_◎;)