猫の爪切り 3週間ごとくらいに
猫の爪は、3週間ごとくらいに切る。北斗、鈴音、夏梅。3匹まとめて、私の膝の上で。
やり方は決まっている。膝に乗せて、太もものあいだに軽く嵌める。すると3匹とも、暴れない。それどころか、じっと私の顔を見つめてくる。抵抗ではなく、確認だ。「すぐ終わるよね?」という顔。「はーい、すぐ終わるからねぇ」と声をかけると、本当にすぐ終わる。パチン、パチン、と。
この「すぐ終わる」を、猫たちは知っている。だから任せてくれる。
――ところが最近、我が家の同居人が、この爪切りを私に頼むのを惜しむようになってきた。
理由は、たぶんプライドである。私が3匹の爪をすいすい切ってしまうのを見て、同居人はこう思っているらしい。あれは、猫に信頼されている証だ、と。爪切りは、猫が一番されたくないことのひとつ。それを暴れさせずにやれるのは、猫が身を預けている証拠。だから同居人も、猫とそういう関係になりたい。自分の手で、切りたい。
その気持ち、よくわかる。
けれど、彼は挑戦のプロセスを私に見せたがらない。飲みながらやると失敗するのも、自分でわかっている。だから決行は、いつも私が夕飯を作っている隙だ。台所で私が背を向けているあいだに、こっそり始める。
最初のいけにえは、北斗。
なぜ北斗かというと、従順だからだ。北斗は6キロの重量級で、切るには一番大変な相手のはずなのに、おまぬけで、言いなりになる方向にかけては天下一品。「こいつなら、やらせてくれるはず」。同居人の読みである。
ところが。
その従順なはずの北斗に、抵抗されている。誰にでも身を預けるあの北斗が、同居人にだけは、身をよじる。かわいそうなのは、北斗ではない。同居人のほうだ。
結局、爪切りは中途半端に終わったらしい。そして――意地があるから、そのあと私には頼んでこない。片方だけ切れた北斗の爪のことは、たぶん、そっとしておいたほうがいい。
極めつけは、昨日の夜だった。
鈴音がごろんと寝そべっているとき、同居人が急に「今、鈴音の名前を呼んで」と言う。言われたとおり、呼んでみた。鈴音は、顔を持ち上げて、私のほうを見た。「なあに?」と確認するように。
すると同居人が、自分でも呼んでみる。鈴音は、振り向きもしない。
同居人は、大笑いしていた。悔しがるのではなく、笑っている。名前を呼んでも振り向いてもらえない現実を、自分で確かめにいって、笑い飛ばしている。その明るさが、いい。
私がやれば、爪切りは速攻で終わる。名前を呼べば、猫は顔を上げる。でもそれは、私が特別に上手いからではない。3週間ごとの膝の上と、名前を呼べば振り向く関係は、爪切りの技術で手に入るものではないのだ。信頼は、爪切りの前に、もう決まっている。
同居人が本当に縮めたいのは、爪と爪切りばさみの距離ではなくて、たぶん、もっと手前の、何でもない時間の距離なのだと思う。
だからきっと、彼はまた、私が夕飯を作っているあいだに、こっそり北斗を抱えるのだろう。がんばれ。北斗の爪は、いつでも私が仕上げておくから。




