ネットのない時代を振り返ると
検索窓に打ち込めば、一秒で答えが返ってくる。今はそれがあまりに当たり前になっていて、逆にその前がどんな時代だったか、なかなか思い出せません。
私自身がインターネットにアクセスできるようになったのは、実は1994年、父が亡くなってアメリカに戻ってからのことでした。それまでは電子辞書というものすらなく、何かを調べようと思うと、とにかく時間がかかりました。
日本にいた頃は、わからないことがあると図書館や本屋までわざわざ出かけて行きました。マイクロフィルムをずらーっと繰りながら目当ての記事を探し、見つけたら図書館に依頼をかけてコピーしてもらう。順番待ちをして、ようやく手元に届く頃には、正直、もうぐったり疲れていました。一つの答えにたどり着くまでに、半日仕事だったこともあります。それでも、探している途中で目に入った関係のない記事や本の背表紙に、思いがけず助けられることもよくありました。
1988年に渡米してからも、状況はそう大きくは変わりませんでした。ただ一つだけ、はっきり違うと感じたことがあります。図書館の司書さんたちが、もうパソコンをフルに使いこなしていたことです。生徒に触らせられるレベルには、まだ程遠かったのですが、司書さんの手元では、本の並びやインデックスが徹底的に整理整頓されていました。何がどこにあるか、どう分類されているかを知っている人が、答えまでの最短距離を知っている。あの光景を何度も見せられたことは、今振り返っても大きかったと思っています。
情報そのものより、情報をどう並べるか、どこに位置づけるかという考え方に、日常的に触れていた。だから私は、あの不便さがあったからこそ、賢くなれた部分があると本気で信じています。面倒くさい、時間がかかる、簡単には手に入らない——そのハードルの高さと付き合い続けたことが、結果的に「分類する力」を鍛えていたんだと思うのです。図書館まで歩く時間も、マイクロフィルムを繰る時間も、無駄なようでいて、実は考える隙間になっていました。
今、生徒のRくんを見ていても、同じことを考えます。「調べればすぐ出てくる」時代に育つと、面倒くさいと感じるハードルの高さそのものが、私たちの世代とはまるで違うんだろうな、と。彼にとっての「ちょっと面倒」は、私にとっての「大したことない」だったりする。それ自体は誰が悪いという話ではなく、育った環境の違いです。今回、彼が進めているアンケート調査でも、統計的にすっきりしない結果が出て、追跡調査が必要になりました。実はその提案をしたのは、私自身です。ラクに答えが出ないところで、もう一段掘ってみる。この感覚は、教わって身につくものではなく、面倒くささをくぐった経験の中でしか育たない気がしています。
TPOPの選択肢のバラエティも、ものさしの目盛りをどれだけ細かく持てるかも、結局はこの「分類する力」そのものです。今この場面で、どのタイミングで、どんな距離感の相手に、どう反応するか——その選び方の細かさは、昔の図書館でインデックスを追っていた感覚と、地続きだと思っています。だからこそ私は、CSQを、IQ・EQ・SQに続く第四の知性と呼んでいます。
答えが一瞬で出る時代だからこそ、その答えをどう並べ、どう位置づけるかという力の差が、これから静かに開いていくのかもしれません。ネットのない時代を懐かしむつもりはまったくありませんが、あの不便さの中で育った感覚だけは、今も自分の中でずっと働き続けています。





