あなたの過去を総浚(そうざらえ)シリーズ 前編:出来事をたどる その1 なぜ退行が必要なのか?
フロイトのRegression(退行)という概念があります。ストレスや不安に直面したとき、人は無意識のうちに、より幼い頃の反応パターンに戻ってしまう、というものです。一般的には、あまり良い意味では語られません。未熟さの表れ、成長の後退、そんな否定的な文脈で使われることがほとんどです。でも私は、この退行という現象こそが、CSQでいう「自己を知る」ことの出発点なんじゃないか、と考えています。
人間は、積み重ねの存在です。小さい頃からの経験を、なかったことにはできません。そして、そこで感じ、考え、身につけたものは、理屈として覚えているわけではなく、本能にまで習慣化してしまっているものがほとんどです。だからこそ、見えていない部分をちゃんと見つめないと、本当の意味での「総浚え」にはなりません。大人になってから身につけた知識や理屈で上書きしたつもりでも、幼い頃の反応パターンは、地層のようにその下にちゃんと残り続けています。
「浚う」という漢字、私はこの字がとても好きです。「おさらい」はひらがなで書かれることが多いのですが、「浚う」という字を見ると、川底に沈んだ土砂をさらうように、表面には出てこなくなったものを、あえて掘り起こす作業だという感覚が伝わってきます。忘れているのではなく、沈めてしまっているだけ。それを、時々きちんと浚わないと、いつの間にか川底に積もりすぎて、水の流れそのものを変えてしまいます。おさらいという柔らかい響きでは、なかなかそこまでの覚悟は伝わりません。
自分でも気づいていないものが、実は将来にどれだけ影響を与えているか。これは、本人にはなかなか見えません。子どもの頃の一言や、繰り返された小さな出来事が、大人になってからの選択や反応の癖として、形を変えて何度も顔を出してくる。でも、もし自分の中を流れていった流星のしっぽのようなものを、自分自身の目で見られたとしたら。それは、けっこうかっこいいことだと思うんです。過去を振り返るというと、後ろ向きな作業のように思われがちですが、私にとっては、自分という現象がどんな軌跡を描いてきたかを確認する、前向きな作業です。
このシリーズでは、まず「出来事をたどる」前編として、小さい頃の記憶を一つひとつ掘り起こしていきます。忘れていたはずの場面、誰かに言われた一言、繰り返し起きていた小さな摩擦。そうしたものを、順番に浚っていきます。そのあと後編では、「ものさしをたどる」に進みます。出来事そのものより、その出来事から自分がどんな物差しを作り上げてきたのか。何を「普通」とし、何を「良い」とし、何を「避けるべきもの」としてきたのか。そこまで見えて初めて、総浚えと呼べるものになります。
CSQが測ろうとしている「自己を知る力」は、こうした退行の先にある、自分自身の物差しの形を、丁寧に見つめ直すところから始まります。フロイトが「退行」と呼んで否定的に扱ったものを、私たちは出発点として、あえて自分から潜っていく。そこで見つかるものが心地よいとは限りませんが、見ないまま生きるより、見た上で選び直せる方が、私はずっと自由だと思っています。この総浚えシリーズは、そのための最初の一歩です





