私の母は、電話で相手から見えなくても、ちゃんとお辞儀をする人だった。意味がないと言えばないのだけれど、私はその人間性が好きだった。誰も見ていなくても、自分の中の礼儀を崩さない。それは日本文化の作法という以前に、その人そのものの姿勢だったんだと思う。

悪口を言わない、嘘をつかない。こういう基本も、結局はどんな文化に持っていっても、そのまま乗り入れしてしまう。言語が変わっても、文化が変わっても、自分の中にある基本はそのまま持ち越される。それは、その人自身のありようだからだ。

スキルの面でも、同じことが言える。たとえば句読点は、日本語と英語で使い方がまったく違う。でも、日本語の句読点に対して「読めるからいいじゃん」という意識でいる人は、意識のレベルそのものが低いままなので、英語のコロンやセミコロン、リーダー(…)のような、ニュアンスを支える細かい記号を、きちんと使い分けられるようにはならない。いわゆるBlue Book(英文の正式なスタイルガイド)の細かい決まりごとなんて、そもそも気にもかけない(笑)。句読点は飾りではなく、書き手がどこまで読み手のことを考えているかの表れだ。日本語で雑にしている人が、英語だけ急に丁寧になることはまずない。

料理を誰かに出すときの向きや量、人の家の玄関で靴をそろえるかどうか。こういう一見英語学習と関係なさそうなことも、実は同じ意識の表れだと思っている。相手のことを考えて、細部にまで気を配れる人は、どの言語を使っていても、その気配りが自然と滲み出る。逆に、自分の身の回りのことにすら意識が向かない人は、英語を学んでも、その意識の低さごと持ち込んでしまう。

レッスンをしていても、こういう部分は本当によく見える。メールの文面ひとつ、ノートの取り方ひとつにも、その人がふだんどれだけ細部に気を配っているかが表れる。英語の課題を出したときに、余白の使い方や見出しの付け方まで丁寧にそろえてくる生徒がいる一方で、内容さえ合っていればいいという感覚の生徒もいる。この差は、英語力そのものというより、その人が日常のどんな場面でも保っている基準の高さの差なんだと思う。

母のお辞儀の話に戻ると、あれは誰かに評価されるためのものではなかった。見られていなくても崩さない基準というのが、その人の本当の実力なんだと思う。英語の勉強も同じで、テストの点数のように誰かに見られる場面だけ取り繕っても、日常の解像度が低いままなら、いずれどこかでボロが出る。逆に、日常の細部にまで意識が行き届いている人は、英語という新しい道具を手にしたときにも、その丁寧さをそのまま持ち込める。

つまり、英語力を伸ばす前に見直すべきなのは、単語や文法の量ではなく、自分がふだん、どれくらいの解像度で物事を見て、行動しているかということだ。日本語でできていないことは、英語でもできない。これは、このシリーズを通じて何度でも繰り返したい結論だ。