現場にいて気づいたことがある。ここに集まっている人たちの多くは、人間というものをかなりポジティブに捉えている、ということだ。誰かの話をするとき、「優しい」「いい人」「悪気はない」「頑張っている」「努力がすごい」「ちゃんと貢献してるよね」——そういう言葉が、あちこちで飛び交っている。

正直に言うと、私はそこまで人間を信用していない。生命体としての人類は、他の種と比べても、我欲がかなり強い方なんじゃないかと思っている。誰も見ていないところで、それでも正しく振る舞えるかどうか。そこにこそ、その人の本当の姿が出ると思っている。長年、いろいろな生徒さんや取引先の方と接してきた経験から、そういう見方が自然と身についてしまったのかもしれない。

かといって、性善説的な空気に対して、不快に感じるほどでもない。顔に出すこともない。ただ、じっと見ている。ものすごく観察している、という感じだ。優しい言葉が交わされている場の中で、一人だけ静かに人間観察を続けている自分がいる。

私自身にも、誰も見ていなくても守ろうと決めている足場のようなものはある。たとえば信号。誰もいない交差点でも、赤信号ではきちんと止まる。それは長年、崩したことのないルールだ。でも、正直に言うと、スピード違反は別だ。子どもの目撃者さえいなければ、多少はやってしまう(笑)。人にはこうして、譲れる基準と譲れない基準が、案外はっきり分かれているものなのかもしれない。守るべきものを一つだけ決めておいて、あとは案外緩い——そのくらいの方が、長続きする気もしている。

「悪気がない」「頑張っている」という言葉の裏側で、実際に人がどう動いているかを見るのが、なんだかんだ好きなのだと思う。性善説で語られる場にいながら、自分だけはどこか性悪説寄りの目で観察している——このズレこそ、CSQを作り続けている理由の一つなのかもしれない、と改めて思う一日だった。人を信用しないというより、簡単に信用してしまわないための、自分なりの防御線のようなものだと思っている。それでも、目の前の人と接するときは、いつも変わらず丁寧でありたいと思っている。観察と態度は、別のものだから。