15分×2、誰も払ってくれない時間
明日、ホテルが東岡崎に移動することになった。正直、まだ納得がいっていない。3週間の遠征の途中で、住む場所がころころ変わるというのも、なかなか慣れない感覚だ。
理由は単純で、距離が遠くなるからだ。行きも帰りも、それぞれ15分ずつ余計にかかる。往復で30分。その30分は、当然ながら時給が発生する時間ではない。働いている時間の外側で、静かに削られていくだけの時間だ。こういう「誰も払ってくれない時間」が積み重なっていくのは、地味にこたえる。3週間近いこの遠征の中で、こうした細かい移動時間が積もり積もっていくと、意外とばかにならない量になる。
実際、今回はこれが初めてではない。以前は名古屋の栄から西尾まで通っていた期間が4日間あって、そのときは往復でなんと3時間、丸ごと無給だった。あの4日間に比べれば、15分×2なんて誤差のようなものだ。とはいえ、「もっとひどい時期もあったから、今回くらいは我慢できる」という発想自体、なんだか労働時間の感覚が麻痺してきている証拠のような気もする。積もり積もった無給の移動時間を全部足したら、いったい何時間になるんだろう。考えると少し恐ろしい。
運営側から特に説明があったわけでもない。移動が決まったことを、ただ知らされただけだ。理由を聞いても、はっきりした答えは返ってこなかった。こういうとき、説明がないこと自体に苛立つ人もいれば、私のように「まあ、大人の事情なんだろうな」とあまり深く追及しない人もいる。それも一つの文化差なのかもしれない、とふと思ったりもする。ただ、状況は分かっている。今、アジア大会で街全体の宿がまったく取れないのだという。そう聞けば、なるほど仕方ないか、とは思う。運営側も、限られた選択肢の中でやりくりしているだけなのだろう。
納得はいかないけれど、理解はできる。この二つは、似ているようでまったく違う感情だ。腹が立つほどではないけれど、すっきりもしない。長年、いろいろな契約や交渉ごとを経験してきた身としては、「説明がないまま決定だけが降りてくる」ことへの違和感は、正直、今でも消えない。それでも、ここで声を荒げたところで宿の数が増えるわけでもないのだから、飲み込むしかない。ただ、こういう「小さな不便」を、いちいち感情的に扱わずに受け流せるようになったのは、歳を重ねた効能のひとつかもしれない。明日からは、15分長い道のりを、また新しい景色として眺めることにしようと思う。



