[1999年08月22日(日)]に書いた文章です。
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アメリカに来て先ず購入したものはラジカセでした。それは日本から持ってきたテープを聴くためもあったのですが、とにかくラジオで耳を洗礼しなくちゃいけないと思っていたからです。必需品購入のたびに口座から減っていくお金を見ているとアタマががんがんしたもんです。
電卓はその頃には私の親友になっていて、スーパーに行くときも日本の物価感覚に頼ってはいけないと、広告で差を調べてから食料もセール品をいかに賢く買うかという勝負をしていました。小さい頃から節約はしてきたモノの、自分で自由になるお金ができたら「宵越しのカネは持たないぜ!」と粋なおねえさんぶっていたので、たいへんに屈辱的な気持にならざるを得ないこともあり、それでも目的のために節約し、それを楽しもうとすることはそれなりに意義のあることでした。
必需品でない贅沢品を買うまでには渡米から2ヵ月かかります。2ヵ月経ったときに自分にご褒美をプレゼントしなくては、とたいへんな決心をしてしまったからでした。なぜならば「耳がスコーンと抜けた」のです。これは英語のセンテンスが丸々ちんぷんかんぷんに繋がって聞こえていたのが、ある日突然、ひとつひとつの単語が切れてクリアに聞こえるときの表現です。「ああああああ、何でだよぉぉ。昨日まではアタマの主語と最後の副詞しか聞こえなかったのに、こんなにきれいに全部聞けるじゃないかよぉ」と悶絶しちゃうくらい、すごーくはっきりちぎれて聞こえるのです。今迄「聴いて」いたモノが「聞ける」ようになるわけです。Listening から Hearing への移行でした♪
(これは長年の自分のデータを集めてみると、必ずしもたくさんの人に起ることじゃないみたいです。西さんは経験してません。グラフに書くとわかりやすいですが、私は停滞が長くてある日ぼーんと折れ線が上がって、西さんはなだらかなカーブで聞けるようになったみたいです。「うんうんうん、ほんとに抜けるんだよねぇ」と言う人のほうが少ないみたいです。すごいセンセーショナルな経験です。朝起きたら突然聞けるようになってるってあり?という感じ・・・。)
そのときに考えたモノがお洋服でもなく、食べ物でもなく、娯楽本でもなく、ピアスでもなく、化粧品でもなかったのは自分でもものすごいオドロキです・・・。
私はなぜか毛布を買ったのでした。
それまでは寮で母国に帰る人が使っていたぺらぺらのよく軍隊で使われているような固い毛布を格安で譲ってもらったのを使っていました。水色の毛布でしたがごわごわしていて、夜に冷え込む地中海性気候では頼りないものでした。コンフォーター(かけぶとん)も格安の中古品を使っていて、まくらもまったくぺったんこでした。マットレスも中古でくたくたになってました。マットレスを置くベッドの枠さえ持ってなかったのです。
くたくたに疲れて帰ってきて、できない料理をしてアタマと身体を使い、掃除機をかけてバスルームを掃除して、宿題をして、レシピを盗み書き取りして、倒れ込むように寝るときに、このわびしい装備ではつらいなぁと思ったもんです。頑丈で健康に憂いがなく、アレルギーもなしなしで、煙草も吸っていたし、お酒も週末には飲んでいましたが、不思議と疲労感は出なかったのです。なんて丈夫な♪
けれども精神的につらかったのは、見た目がわびしくて、更に色合いがどどめ色なばらばらコーディネートで、手触りがうんと悪かったのでした。彼氏なんかいるわけないし、子どもでもないんだから誰かと眠れるわけでもないし、けれども、暖かみってぇもんが欲しかったです。睡眠という世にも不思議な活力剤に彩りを添える何か特別ないたわりをもたらすもんが・・・。
そして私はセール広告を見つけて怪しげなモールに出かけました。予算は30ドル←太っ腹☆(当時、煙草は1ドル強で買えました@1988年。今は3ドル50です)「ご褒美、ごほうび☆」と足取りも軽く、貧乏ったらしい格好をしてないかどうかチェックしてふとんやさんに入ったのです。
たくさん毛布がありました。シーツも枕もコンフォーターも欲しかったんだけれども、毛布に包まれて暖かみをどうしても経験したいぞ、と決め込んだ私は毛布だけを念入りに見入りました。そこで運命の出逢いをしちゃったんですね。表は水色で白い羊がたくさんいて、そのなかに一匹だけ黒い羊が混じっている、裏は白で水色の羊のなかに黒い羊が一匹だけ混じっているかわいい毛布を。しかもたったの17ドル99セント☆すごい!しかもすごいシンプルで淡々としてる表情の羊たち!
しかも授業で習った Impression(言い回し・表現)がそこにあるじゃないですか!
Black Sheep:黒羊、悪漢、もてあまし者、((一家の))厄介者、はみ出し者、のけ者。
私は小さい頃からいつもいつもそんなふうに自分のことをアウトローだと感じてきたのです。アタマのなかにこびりつきましたね、この言い回し。どうしてそんなふうに感じて来なくちゃいけなかったのか、今ならばわかります。
私は子どもの頃は前から数えた方が速いほどに大きくはなかったし、いつも同じ服を着ていて馬鹿にされたこともあったし、「どうして高校生にもなってブラジャーを2枚しか持っていなくて夜な夜な手洗いしなくちゃいけないんだよ」と内側につけているモノまで哀しかったし、「ちょっとくらいかわいいから、もてるからってお高く止まらないでよ」と言われる真意がまったくわからなかったし、「どうして一夜漬けでそんなに点数取れるのよ、裏切り者」と言われてつらかったし、「いい大学入ったくせにどうして行かないのよ、行きたくたって行けない人だっているのよ」と言われる理由もわからなかったです。自分で稼いだお金をどんなふうに使おうと勝手だと思ったし、どこで働こうと関係ないでしょ、と思ってました。
そうして他人に「あんたは特別だからいい気になってるのよ」というラベルを貼られて、心のなかでは「私は至ってフツーなのに」と思ってきました。貧乏だから特別?よく稼ぐから特別?勉強しなかったっていうのを嘘ついてると思ってるわけ?で、私を社会から、あんたたちの枠からはみ出させたのは誰なの?と悪態つくことも多かったです。何ていう時間と心を無駄にしてきたか・・・。
それから毎夜、私を包んでくれた羊たちはたとえ色が違ってもなかよくならんで草を食んでいました。裏にしても表にしてもそこにいる羊たちは同じ顔でした。「羊っていうのは黒色を見分けられないわけはないよな」と思ったり、「表情に出さないだけでこの黒羊はのけ者にされてるのかな」と思ってみたり、それは何か感じることがあるたびに変りましたが、毎晩まいばん私を暖かく包んでくれました。枕がぺったんこでも、コンフォーターがぼろぼろでも、マットレスがぺっちゃんこでもよかったのです。私にはこの羊たちがいる☆と想うだけでとても安心できました。
11年以上経った今でもその毛布は私の手元にあります。トリムしてあるマチが綻んだのを繕ったり、バスタブに入れて足で踏んで洗ったりしました。たくさんの毛布にそれから出逢いましたが、この毛布は今でも私の身体と心をいちばん暖かくしてくれます。これがなくなったら立ち直れなくなるくらい泣いちゃうだろうなぁ・・・・。
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ちなみにこの羊の毛布は、アメリカを引き払うときに処分しました。いつまでも持っているわけにはいかないと、えいっ!とさよならしたのです。もちろん売っぱらったのではなく、寄付です。次の誰かが同じことを感じてくれればいいなと願いながら。
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