「怒る」と「叱る」の違い その1

02/21/2008 にアップした文章です。

私が個人的に和田アキ子氏が嫌いなのは、すでに周知の事実になっているのではないかと思うのですが、ぼーっと1日お休みをしていて、TVをつけつつ、PCをやりつつ、お風呂にゆっくり入り、ビールも1本飲んで、メンマの塩漬け(大丈夫、台湾産・爆)を戻して、ごま油で炒め煮をして、ネコたちと遊んで、添削や調べ物をしていたら、自著の宣伝をしていたわけです。そこで、怒ることと叱ることは違うと力説していたのですが、確かに違うのかもしれないが、一体この人の言っていることはどうも「感触」としていつもイヤなので、ちょっと理路整然とまとめてみようと思ったのでした←お題がないんだろ?と言われてしまえばそれでおしまい(爆)。

 

怒る:(1)腹を立てる。立腹する。いかる。(2)しかる。

叱る:(1)(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める。(2)怒る。(3)陰で悪口を言う。

怒る(いかる):(1)腹を立てる。おこる。(2)ごつごつした形をする。角張る。(3)荒々しく動く。

責める:(1)言葉で追いつめる。(ア)落ち度がある、お前の責任だといって相手をとがめる。非難する。(イ)しきりに言い立てて自分の思いどおりにさせる。するように求める。せがむ。(2)苦しめる。悩ます。(3)目的を達するために、積極的にはたらきかける。(4)拷問する。(5)ある動作を一心に行う。(6)馬を乗り慣らす。

 

いやー、調べてみてわかった。私の不快感は、この「責める」というニュアンスから来ているのである。責任感を取るという行為は、自主的・自発的であって然りなもので、どうして他人を責め立てる必要があるんだ!?と私としては思うのです。しかも、この「目下の者に対して」という使い方の頻度が多い条件がどうもイヤなのだろうなぁ・・・。

 

縦社会で当然のごとく、生きていき難い考え方を持つ私は、こうしたしきたり・儒教的(偏見の意味で使っているわけじゃないです;個々人の道徳的修養と徳治主義的政治を尊ぶ学問は、個人の裡側で行われるものであり、国家や社会や家庭で採用して、押し付けるものではないと言いたい。が伝統的に日本も論語を取り入れて以来、どうも政策に使われてきた趣あり・・・。そのマイナスな側面を儒教的とネガティブに捉えてしまっているのは確かかもしれない)なものを、どうも疎む傾向にあるわけです。

 

私が、危険が迫っている場合を抜かして、生命や健康に関することに対しての失敗以外で、体罰を反対するのは、誰かに何かを押し付けられることによって身につくことは、頭や心の芯の芯までしみこむことがあったとしても、「なぜ」「どのようなプロセスで」「どのような場合に」というケースバイケースの真ん中を根こそぎ、自らが納得し、染みこませて納得するチャンス(機会)をまったくのところ奪うからです。

 

叱るというのは、このマグニチュードの問題だとは思うのです。契機・きっかけとしての目覚めを呼び起こすようなものであれば、それほどの害はないことでしょう。けれども、年がら年中咆えていたり、怒っていたり、叱っていたりすることを見せることで、その契機・きっかけとしての効果はぐんと減っていき、いつかはただの「その人に付随する特質」→「習慣」→「性格」となっていきます。目下の人たちにこんなふうに思われることが、我慢ならないほどの、プライドは持っていただきたい。自らわざわざ悪役を引き受けることなど必要はなく、愛をあげられるのであれば、「それしか選べない場合」を除いては、叱ることなどしなくていいように、自らがしっかりと考えて選べるような導きにはトライできるはずです。

 

私は大人に宿題を出すのはとてもイヤなので、たいてい出しませんが、「だらしがないので、ぜひぜひ宿題にして、義務感を生じさせてほしい」というクラスの総意があれば、宿題は出します。プライベートレッスンでも同様で、本人が依頼するのであれば、宿題は出します。あるいは、ひとりでコツコツやることが必要な、Listening, writingは、高いお金を払って授業に来ているのだから、宿題にしたほうがいいこともあるので、宿題という名前ではなく、「課題」とさせていただいています。その採点をするのも、できたら自分でやってほしいので、私は答えを発表するだけにしていますし、Writingの場合は、生徒さんが書いた分量に見合うだけの長さの文章を添削で書きます。その内容や文法的なことではなく、その書いたお題に沿った私の考えや、生徒さんが書いた内容をもっと深く考えるような呼び水的なコメントを残すわけです。

 

できないことに関して、叱ったり怒ったりする必要もなく、それは英語だけに特化したことではないし、たとえこれが数学であっても、生物であっても、国語であっても同じことでしょう。私は、「無知から有知にしたほうが、あなたの血になり肉となるのだよ」とは言いますが、知らないことに関して叱る必要などないと思っています。たとえそれが哲学であろうとも、倫理学であろうとも、箸の持ち方であろうとも、歯ブラシの仕方であろうとも、です。

 

誰かに迷惑を掛けたことに関しては、確かに叱ることが効果的なこともあるのでしょう。大勢が関与する問題に関して、どのくらいの損害を生じさせているのか?を考えれば、それは責任者になっている人間が叱る必要は出るのかもしれません。でも、なぜ和田アキ子氏が?というのは解せぬところです。現場での責任者は誰なのか、明確になっていれば、彼女が叱る役を買って出る必要はないので、きっと彼女は、大人を叱るのが好きなんでしょうね・・・(汗)。

 

私は「他人に愛がないから叱らないのだ」と言われても、愛があるないなどという観念的で曖昧な言葉に騙されたりしませんぜ(笑)。愛があるからこそ、本人が自らできるようになることを待てるということだって、簡単に言えてしまうわけです。

 

小学校3年生の子どもが、きちんとした授業ノートが取れるほうが稀なわけです。その能力はだんだん成長していくと、開発されていきますが、そうではない、欠落してきた大人もたくさんいることでしょう。道徳的なことでも同じです。場面が少なかったから身につくことがなかったのであれば、自らが学べるような状態に、大人であれば、叱る前にいろいろ工夫してもらいたいもんだ・・・。

 

しかも、叱るような距離感にない他人が、どうして叱っていいものか、とも思う・・・。電車の中で、「確かに携帯電話を使わないでください」というアナウンスが流れているときに、携帯で大声で話している人というのは実在するのでしょう。私は遭遇したことはないのですが・・・←ラッキーなのかしら?(笑)そのときに、「注意をする」「叱る」というのは、私は違うと思うんですね。「やめていただけますか」と依頼してみればいいんじゃないかと。その人が、アナウンスを聞いていたとは限らぬし、その人の常識ではないことかもしれないので、とりあえず、そのチェックくらいはしてもいいんじゃないかと思うんですねぇ・・・。緩やかすぎですかね?ええ、私はゆるい人間なんですよ・・・。私はおそるおそるアメリカ18年半のあと、アジャストして、間違った常識をかなりたくさん持っていたので、そういう気持ちになるんですけど、肩を持ちすぎですかねぇ・・・(爆)。

 

今日は、怒る(おこるといかる、両方)について、言及できないままでした(笑)。明日続きを♪

 

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