オリンピック感情

08/09/2008にアップした文章です。

いやぁ、またやってきてしまいました、オリンピックの季節。これについて、正式にタイトルにまでしてエッセイを書いたことがなかったことに気づき、一度書いておこうかと思っています。あちこちに散りばめたことを書いたことはあるのですが、そしておそらく、私の文章を読んでくださっている方々には予測できることしか書けないとは思うのですが、改めてチェックするというクイズ感も味わえるかもしれないということで、今日はこれで。この書き出しからして、オリンピックに対してわりとネガティブな想いを抱いているのではないか?と読み取れてしまいますよねぇ・・・。そうなんですね、私は昨日が開会式であったことすら、生徒さんに教えていただき、さらっとしていたものなのです。あってもなくても私にとって痛手はない、程度のものがオリンピックなので、熱い気持ちで応援している方々には、ちと呆れた態度なのかもしれず・・・。

 

そもそも、私は太宰治の『走れメロス』にかなり感動した子どもだったので、当然、映画Gladiatorにも泣き、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC 

どうも、ヒトが昔から競技を娯楽としてエンジョイすることに関して、一線があり、私自身が娯楽として生活に取り入れられるような心持がついたのも、ごくごく最近ことでした。PTSDになり、家に篭っていたときにアイスホッケーに出遭ったことで、その過酷さや才能の駆使や酷使などに魅かれたもので、それを商業化せねばならぬことなどにも、いろいろと考えさせられた揚句の果てに、エンジョイする部分と醒めた部分を区切るようにした、というわけなのです。

 

権力を持っている側が、ヒトが生まれ持った能力、特にサバイバルに必要で有利な身体能力を基礎にしたものを、イベントとして利用することに対して、どうも抵抗感が拭えず・・・。子どもの頃はどうだったのか?というと、私はアベベと円谷幸吉がオリンピックで走った場所のすぐそばで育ったこともあり、お祭りというよりは、ヒトの生き方を見るツールとしての機会として捉えてきた感があります。

 

父が単純にプロレスを見たり、野球を見ていたりしたことにも、どこか第三者な意識があり、弟が生粋の巨人ファンであることにも、どこか醒めていたところがあり、今でもアイスホッケーのアリーナに行けば臨場感や連帯感は得られるものの、むしろ個々の個人の技能やゲームの流れや動体視力を駆使したパックを追い求めることのほうがずっとおもしろく・・・。やはり私はどこまで行ってもLoner気質なんだなぁ・・・。

 

まとめてしまえば、私は経済的ゆとりがなかったことで、競技を傍観者としてエンジョイするようなゆとりがまったくもてなかったということです。子どもの頃は自分が遊びの中で学び、働けるようになってからはずっと働いてきており、病で働けなくなったときにTVで観戦できるアイスホッケーがあった、と。そしてどんどん好きになり、アリーナに行くために、病を癒すために、アイスホッケーの選手たちのひたむきさに助けてもらった、と。だからこそ、見方としては、かなりひとりよがりで、経済や世界のパワーゲームや商業的個々の利益不利益やその他が絡むことに、面倒すぎてクビを突っ込んでいられないぞ、というところ・・・(汗)。

 

校長センセがサッカーと野球を見ているのは、地元への帰属意識・愛の深さもあってなんだかとてもうらやましく、日常化した家族との対話や交流の場としても使っていらっしゃったり、ゲームそのものもエンジョイしてらして、基本はLonerなのだろうけれども、Loner一点張りでもないところがとてもいいのだ。

 

私は日本に戻って来てから、ビールを戸外で飲むために野球場へ行くことをまだしていません。野次を飛ばしたり、応援したりできるか?と聞かれると、英語ではできるのに、なぜか日本語では文化的に読めないからかもしれない(笑)。ええ、野球は、あまりにゲームが長いので、私はビールを飲むための戸外を楽しむ機会として捉えており・・・(笑)。たまに行った試合で、Barry Bondsがサイクルまであと1個、などになったときにはご機嫌でした。

 

が、オリンピックがさらにイヤなのは、日本人なのだから日本人を応援しよう!という暗黙のうちの了解ですか・・・。いいじゃん、強い人が勝てばどこの国のヒトでも・・・。

 

私は、Happen to have been born as Japanese(たまたま日本人として生まれた)と思っているところがあり、それは輪廻転生があって、神が私に前世で「ナニジンに生まれたいのか?」と選択肢をくれない限り、おそらく事実なのでしょうから、やっぱりそれに対して忠実でいたいと思うのです。とてもとても原始的に。

 

なので、生まれた後、どのように日本人化したのか?どのように世界の中で自分の位置を決めてきたのか?ということに忠実でいたいわけです。

 

進化論の原理からいえば、「強い者が勝つ」というルールの中で、オリンピックがきちんと機能していれば、もしかすると娯楽として、参加できない側として、傍観者として、それなりにエンジョイできたかもしれないのですが、どうも「強い者が勝つ」というルールだけにはなっておらず、強化合宿ができたり、ギアがもてたり、コーチを集められたり、と、まぁ、下準備は不公平だらけ・・・。

 

なので、私の大好きなホッケー選手は、貧乏な中で、生きていくためにはホッケーしかなかった類の天才が多いんですね。カナダや北欧にはまだその手の選手がたくさんおり・・・。1年のストの前には、サラリーキャップがなかったので、Joe Sakicは3億プレーヤーだったのですが、それでも子どもたちをDisneylandに連れていけたことがヨロコビ、と語るような人だったのです。

 

さらにアフリカのお友だちたちに聞いてみてもわかるように、たまたま見出されて頂点まで登りつめた人々と、富国の選手たちには公平感が大きく欠如する。そんなところで、オリンピックに対してはとても醒めてしまっているのでした。

 

またもや言及できるのであれば、国際社会のための広告行為として使われているようなところにはうんざり感すらあり・・・。なので、私は東京オリンピックを誘致しよう!という運動にもたいへんに醒めており、「来なくていいよ・・・」と思っているのでした。オリンピック開催地になったから、ということで、政治的文化的にいろいろなことが変わるのであれば、それがしっかり定着すれば意義があるのかもしれません。が、一時的な景気回復にしかならず、ゴミを作ったり、住人に負担が多くなるようなことがあれば、なんだかとても不愉快だし。むしろ、日本であれば広島や長崎でオリンピックをしたらどうなのよ?と挑戦的な態度ですらあるのです・・・(汗)。

 

とはいえ、Vancouverでの冬季オリンピックのときは、少しテンションが違うかもしれないです(笑)。みんなが真央ちゃんたちを見ているときにアイスホッケーしか見ないんですが・・・。昨日、NHKで開会式の録画を見ましたが、なんだかとても仰々しかった・・・。すでにうんざりです(笑)。

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