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保身の実態 その2

11/14/2007 にアップした文章です。

 

昨日は自分が偽善者のままで終わってしまったので、ちと後味が悪かったのですが、いや、それは事実なので、認めておきます。こうした背信感は、言語を持ち、脳に記憶と知識を蓄積している功罪の罪のほうですが、功も大きかったので、潔く引き受ける覚悟です。パチンコで勝つたびにネコたちにお刺身を買うのに似た、何かの補償をしていれば、なんとなく全体量・質としてのバランスが取れるかもしれない、という希望は持っています。

ヒトは、環境に順応し、技術を発展させて、さらに知識を蓄え、言語を持つことで、人になりましたが、地球を制覇していいのかどうか?と、私は未だに疑念を拭えずにいます。そのせいで、偽善者でしかありませんが、自分にできることを自分なりに実践している日々です。昨今、街や町に下りてきている動物や、観光地での動物の話題がたくさんニュースになっていますが、「かわいそう」「迷惑」など、いろいろな感想を持つことでしょう。私がいつも思うのは、「地球は誰のものなんだよ!?」ということです。そんなとき、誰が先住で、誰が力を使って理不尽をしたのか?を、私は問題にしているようです。

共存:二つ以上のものが一緒に生存したり存在したりすること。
共生:(1)一緒に生活すること。(2)〔生物〕 異種の生物の共存様式。普通、二種の生物が互いに利益を交換して生活する相利共生をさす。アリとアリマキ、ヤドカリとイソギンチャク、根粒バクテリアとマメ科植物など。(3)〔心〕 子と母親の相互依存の状況。

この世にあるすべてのものは、誰のものでもなく、実際は「借り物」という醒めた観方をしている私は、おかげで物欲に支配されることもなく、不動産転がしはしても、家に過度な期待を持つこともなく、ここまでやってきました。洋服の数も少なく、靴は基本1足で、現地でヒールに履き替えるなどという小技を使っています(笑)。必要以上のものを持って着膨れするよりは、誰にも盗まれない本当に価値の高いものを、頭に残せという華僑のおじさんから聞いたのは、8歳だか9歳の頃ですが、その教えは未だに守っています。本もアメリカにいるわけではないので、借りて済ませており、持ち物としないことを遵守しています。

そうでなくとも、自分のものと他人のものの境界線は、引くことすら面倒なんだよね・・・。ふぅ。
それがさらに、心的なものや目に見えないものまで言及すると、とんでもない面倒さになる・・・。
だって、私の物事に対する基準は、「面倒くさくないこと」というのが、中心になっているのである(自嘲)。

私は個人的に、共生や共存ということをあまり強くは信頼しておらず、ヒトが生命体として持ってきた「本能」がいつ呼び起こされるかについて、企業などの膨れ上がったシステムや組織だけではなく、個人についても、懐疑を持っています。だから、距離・空間センスを磨くこどで、自衛し、「自分はサバイバルをしているのだ」という生命体の基本から離れていないのです。

そこで、脳が発達してしまったがゆえに、どうも駆使してしまいがちの、保身・自己中心性・Self-Esteem・自尊心・自己言及性など(これらの意味については、昨日の記事を参照してください)ですが、生命体全体の中のひとつの種、ヒトから出発していることを無視している場合が、途轍もなく多いのだということは、すでに昨日書きました。

ナマミというのは悲しいもので、眼の位置で他の四肢や器官の発達まで変わるのと同様、モノの見方にも影響があります。外界とのコンタクトは、視覚に頼ることが8割ほどを占めており、それゆえに、私は大人になってから思い返すと、全盲だった祖父の言動には慎ましやかで、謙虚で、真実味や、本当の意味での共生への希望や、己にできることを真摯にやっていく態度が伺えたと思えます。

マスコミがこれほど発達し、村落だけだった社会が外側に幾重にもあり、さらに海外まであり、その先には宇宙まであり、ということがわかったのは、京極夏彦風になりますが、マジックです。技術革新というくだりについては、彼の『塗仏の宴』に詳しく説明してあるのですが、要約すると、既知ではない物事を思いついたり、探し当てたりすることは稀であり、それを最初に行い、技術として確立することは、祝福であると同時に呪いともなります。表裏一体な考え方です。がゆえに、大陸から渡ってきた新しい技術などを持つ人間については、偉人化するか、異人化するか、の二者択一になり、真ん中には位置させられなかった。自分の視野・環境にないものに対して、どのような反応を示すのか?は、たいへんに迷うところなのでしょう。

最もオソマツで、簡単な答えが、「ないものとする考え方」で、この社会の自己中心性や、保身は、「ナマミで生きている人間たちに優先順位をつけて、価値のないものとみなし、自己の平静を保つ」という方法。遭ったことがないのだから、話したことがないのだから、知り合いですらないから、などという考え方で、隔離することにより、自分の身勝手さを正当化しつつ、人々の自己中心性は蔓延していきます。核家族化が進むことで、建築の近代化などが進むことでも、人々はそれぞれを簡単に隔離することができるようになり、プライバシーという名の下に、実直で正直で謙遜で全うなふれあいを、どんどん減らしてきましたし、努力や労働や悲しみやつらさなども、「共存のための本音と建前」のよりよい使い方ではなく、その先にある「損得勘定」を目標にして、繋げてきたわけです。もー、英語で、Nemawashi(根回し)を使うアメリカ人に出会ったときには、椅子から転げ落ちるくらいにびっくりしましたぜ(笑)。

他人や他の生命体の存在そのものを否定し、価値を自分の尺度で下げることにより、自己中心性は上がります。間違った形でのSelf-Esteemの上昇・下降が起きます。さらに、それが定着することにより、それを基準に物事を考えていくわけで、自己言及性の不確かさがますます進みます。多様化は、サバイバルにとっていいことなはずですが、実際は、個性は多様化しているわけではなく、自己中心性に傾いているように、私には見えます。

個人主義の定義をもう一度。
個人主義:(1)〔individualism〕個々の人格を至上のものとして個人の良心と自由による思想・行為を重視し、そこに義務と責任の発現を考える立場。→全体主義 (2)その人の属している組織全体・社会全体のことを顧慮せずに、個人の考えや利益を貫く自分勝手な態度。
至上:この上もないこと。最高。
人格:(1)人柄。品性。(2)〔心〕(ア)個人のもつ一貫した行動傾向・心理的特性。「性格」と同義に用いることもあるが、知能をも含めたより広義の概念。パーソナリティー。(イ)自我として自己の心理的作用を統合するはたらき。(3)〔倫〕 道徳的行為において、自由意志のもとに権利・義務・責任を担う主体。(4)〔法〕 権利・義務を有する主体。また、その主体となり得る能力。自然人と法人に認められている。権利能力。

もう一度、この個人主義の意味を深く考えてみるいいチャンスかと思われます。

第二の大きな質問:
自分の自己中心性・自己言及性は、健全な範囲で日々機能しているか?

昨日の問いに、「ヒトは生命体の王者である」と答えた人の自己中心性は高いです。自分は家長であるだとか、人よりも大いなるパワーを持っていると自慢できる人の自己中心性も高いです。がゆえに、自分を基準として物事の是非や善悪やよしあしを考えてしまう傾向があることにも、気づけるといいです。

明日は、ケーススタディを用いた自己中心性と保身について。

 

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