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偶然の符牒

11/12/2007 にアップした文章です。

 

確率論というのは、便利なのだけれども、理解していないまま日常を暮らしていたり、その落とし穴に嵌まってクリアに全体像が見えなかったりもする、厄介なものではあります。論理的に物事を考える場合、確かに数字化しているものは理解しやすいように思えるのですが、その数字がどのように得られたものなのかが検証できないと、まず、不正確なのだというのは、無作為抽出(Random Selection)の説明で触れさせていただきました。今日は、見落としがちな偶然について。

これまで何度か書いてきたのですが、ヒトは積み重ねの存在であり、その理由には発達してしまった大脳のため、記憶や技能が蓄積できるという特典があります。ネガティブであってもポジティブであっても、そこには蓄積されていき、身についたままで剥がれ難い。何度もまっさらなところで新しいものを学ぶことよりも、すでに学んでしまったものを一旦ゼロに戻し、そこから最良に見える方法をもう一度学ぶことはなかなか難しいとも書きました。ところが、取捨選択は主体である個人が行っており、意志ばかりが働くものでもなく、「生かされている存在」でもあるので、環境要因からのさまざまな刺激・影響にも左右されることも何度も繰り返してきました。どんなものに、どの程度、どうやって影響されるのか?というのが、目下の科学が解明している基礎の概念です。

男女の出遭いなどについては、この偶然をよくも取り入れる都合のいい解釈が多いのですが、実際の偶然性は、それほど高くはないのです。その人の生まれ持った性格で、すでに方向性は少し狭められ、与えられた環境でさらに方向性が狭められ、触れ合う人々からの刺激の強弱や、学んだ物事からの刺激の強弱などから、どんどんとヒトは形成されていき、行動範囲が決まっていきます。

日常と非日常の、日常部分が決まるわけです。習慣の動物であるのは、ヒトも例外ではなく、たいていのことは日常に縛られての基礎がもたらします。その基準・指針に照らし合わせて、パターンや法則性を持ち、人々はブレがなるべく少ない日常を暮らしていきます。非日常性を多く持つものは、「ふだんの生活からかけ離れている」と個体によってみなされたもので、これまで培ってきた脳に蓄積されてきた知識や技能や記憶などから、「心地よい・心地悪い」の次段階になる「好き・嫌い」などのフィルターを通し、岐路では、「非日常なので避ける」、あるいは、「経験はゼロか少ないけれども、刺激に反応する」という行動へとなります。この「避ける」を多用するのが、習慣性が高いヒトの行動パターンなのですが、好奇心が強かったり、学習能力が高い場合には、後者を選びがちになります。これは、赤ちゃんの頃からずっとしてきていることで、どちらの傾向が強いかは、個体がすでに判断できることです。

ですから、ヒトは自分なりに培ってきたパターン・法則性に則り、その行動範囲の中で、かなりの取捨選択をして、まずは注目する相手・話す相手・距離を縮めていく相手、を決めているのです。お見合いをして結婚をする場合でも同じで、そのお見合い先をどのように信頼するかどうか、紹介してくれた人をどれくらい信頼するか、など、それまでの日常性のパターン・法則性で決めていますので、間口が違っても同じことです。コンピューターなどによる診断での出遭いや紹介でも同じこと。あくまで出遭いは出遭いでしかなく、そのあとに来る人間関係の形成の序章でしかありません。たとえ、旅先で偶然のように出遭っても、実際はふたりがその地に関連する何かの共通点を持っていた、ということが言えますし、職場や学校など、何百・何千の人間の中から、自分が欲する人をやはりスクリーニングしているわけです。

さて、ここからが偶然性に関連すること。ここに偶然はあるのかないのか?

偶然: (名・形動)[文]ナリ(1)何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま。(2)〔哲〕〔contingency〕事象の因果系列に対して、それに含みえない事象または因果的に予測できない事象が生起すること。⇔必然
必然: (名・形動)[文]ナリ 必ずそうなると決まっていること。それ以外になりようのないこと。また、そのさま。⇔偶然 ⇔蓋然(がいぜん)
(副)必ず。きっと。
(副)思いがけないことの起こるさま。たまたま。
符牒:(1)意味をもたせた文字や図形。記号。符号。(2)仲間だけに通用する言葉や印。合言葉。(3)商店が商品に付ける、その店の印や値段を示す印。(4)利益などを分配すること。また、その分け前。

実際には、確率論では、偶然というのは事故性・意外性などと解釈されます。予測通りにはならぬ、というもの。では、その予測を立てるのは誰なのか?その予測は正しいのか?も含まれていきます。だからこそ、偶然というのを定義するのは難しい・・・。

統計学などでは、偶然性を設定するのは、1%から10%が最も採用される範囲です。バクチや会計の誤差計算などにも採用されています。100回に1回から100回に10回くらいは、予測しない事故や意外な展開が起きるというもの。

私は昨日の自分の行動を考えているのですが、どれがそれに当たるのだろうか?と。簡単な例ではパチンコですか・・・。何度も何度もクルクルと廻る機械は、そのたびに抽出される仕組みになっており、あくまで確率です。昨日はたいへんラッキーで(いや、昨日も、か・・・)、65000円も上がりがあったのですが、その台を見切るかどうか?というタイミングは難しい。昨日の場合は8000円投入時点で第1回目が当たり、元金を大いに超えるだけの出球があったので、いつ止めてもよかったのです。が、またゼロから始めたところ、合計でもう4回当たり、どれもが連荘だったので、最終的には16箱にもなり、自分でもびっくりしました。パチンコ台は、流行や人気などにもよるのでしょうが、何百万回も廻る中の、「切り取り確率」です。私はわずか1400回廻しただけで、あたりが16箱あったわけですね。確率的には、310回に1回当たりの台なので、大きくその確率を上回っており、勝った時点で止めたほうがいいのでしょうが、続けてやってよかったことになります。が、この切り取り部分の確率については、大きな誤差が生まれる。ここに本当に偶然はあるのだろうか?と、その「パチンコ台の寿命までの総回転数」がそもそもわからないのだから、ちょっと計算が成り立たない。

母は、水曜日と日曜日は、ボーイフレンドのお家から、夜の9時15分に戻ることになっています。ひとつはバスのスケジュールによるもので、原付バイクで出かけても、なぜかその時間は遵守されます。彼女も習慣性の強い人なので、TV番組や時計やその他に従うからなのでしょう。

私は昨今では、この偶然の符牒は、事故や過失についてしか用いないようになっています。誰かが被害者になった場合、その人のせいにするのはあまりに残酷です。確かにたくさんの要因はあるものの、最後の最後まで煮詰めて考えた場合、この偶然というのがあってほしいという願いも含まれています。加害者側に自分がならないと言い切れるものでもなく(もちろん、そうはありたくないと堅く考えてはいるものの)、チャンスがあった場合に、逃げ切れる場合に、本当に100%の保証があるか?と問われると、私はこの事故性についても加味しなければ、手落ちだと考えるわけです。危機管理などに対する考え方も同じで、「絶対」はこの世にはなく、やはりこの事故性や偶発性については、考えられなければそもそもの世界が成り立たない。

たとえば私の白髪に関する予測は、髪は女性ホルモンなので、母を見ればわかりやすい予測が立てられる。彼女の場合は、白髪が抜ける範囲で出たのが49歳で、染めるようになったのが54歳。私も栄養価その他でブレがあるにしろ、そのへんなのだろうな、と観念はしています。が、たとえ年明けに白髪を発見したとしても、私はそれほど落胆しないのだろうと思うのです。つい最近、生徒さんのひとりが、電車で10万入りのお財布をスリに盗られてしまったのですが、その落胆は大きなものでした。旅行前の出来事で、本当に文字通り、夜通し泣いたそうです。私個人は、スリに遭遇したことはないのですが、確率論から言えば、ゼロではないので、「明日は我が身」と、お財布に入れる金額についてはちと考慮してしまいました。

お隣にいる愛する人とは、ぜひぜひ偶然で出逢ったとは思わないでいただきたい。なぜならば、やはりあなたの判断で、心が震える人についに出逢った、というほうが、偶然出会うよりロマンチックではないですか?うーん、そのへんも考え方なのかなぁ・・・・。

ただし、自信を持っていいのは、ものすごい確率の中、あなたというヒトが生まれたこと。精子の数はものすごいですし、細胞分裂のめまぐるしさやメカニズムはすごい。偶然はここには含まれていますが、だからこそ、あなたはユニークなのだ。

 

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