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妥協の境界線

03/09/2008 にアップした文章です。

 

私が最初に妥協という語彙を学んだのは、小学校5年くらいだったので、今考えると相当に早いとは思うのですが、私はあえてこれを使わないようにすることを、その当時から心がけてきました。読書が進むと語彙は増えていくものですが、それがどんな言葉で、どこで使うとぴったり来るのか?というのはなかなか子どもではわからず・・・。そんな言葉たちはたくさんありますが、わたしはこの妥協という言葉が、今でも嫌いです。妥協したと思う気持ちが、後を引くせいなのでしょうね。なぜか、「妥協してやったのに・・・」と奢り高ぶる気持ちが芽生えるせいです。

 

妥協:対立していた者の一方が他方に、あるいは双方が譲ることで意見をまとめること。

妥協点:両者のおりあいのつくところ。

対立:二つの反対の立場にあるものが並び立っていること。互いに相いれないものが向かい合っていること。対峙(たいじ)。

 

私は好戦的だと思われがちなのですが、必要がなければ、闘うことなどやらないに越したことはないと強く信じています。そもそもの生命体の逃れられない宿命が、『生き延びること』ですから、勝てない勝負をすることで、エネルギーをたくさん消耗してしまってはいけません。が、小さく小さく毎日負け続けても、エネルギーは目減りし、いつしかその貯金がなくなったり、エネルギーをもらえるエネルギー源が消滅してしまったりして、どちらにしても生き延びることが厳しくなるかもしれないことは、予測したほうがいいわけです。

 

そんなわけで、たまには勝負しないといけないことがあり、そこには対立があり、妥協になるのか、真っ向からの勝負になるのか?という二択になることも多いのですが、私は対立してとことん話したあと、自分が選択したことに関して、「妥協した」とは一切感じない、考えないようにしています。

 

しかも、ですよ。私は対立状態が継続することが、それほど悪いことだとも思っておらず・・・。根本解決ができる個人的な問題であれば、私は必ず解決に向けて動きますが、たくさんの人間が関与する問題に関して、他人の考え方を積極的に変えようとは、まったく思わないでいるからです。「変わったらいいよなぁ・・・。不自由だろうなぁ・・・」とは思うし、根がいじわるなわけでもないので、知識としてのいろいろ話はしますし、質問をされれば答えますが、相手が私の考え方を変えようという積極的意図が見られたら、ちょっとげんなりします。

 

しばらくそんな場面には遭遇していません。が、たまにありますね。宗教団体の活動や、占いなどの勧誘やその他。それほど隙アリで歩いていないのだろうから、たぶん大丈夫でしょうが・・・(帰国してきたばかりのときはやばかったかもしれないですが・・・汗)。

 

右寄りの考えの人を左にしようなどとも思わないし、勉強しない人を勉強させようとも思わないし、性の快楽に溺れる人を救いたいとも思わず、です。ただ、意見としては、「中庸ってむずかしいけど、それがいいのかもねぇ」だとか、「勉強かどうかわからないけれども、学習を続けてよかったことはたくさんあるよ」だとか、「性の快楽は一時(いっとき)だけれども、快楽には上があるかもよ」などとは言います。それでも相手の反応がなければ、そこでおしまいです。押し付けるということほど愚かなことはないと考えているので。

 

ですので、相手を妥協させようなどと思ったこともなく、卑近な例で言わせてもらえれば、食事のメニューなどでも、私がその日食べたいものがステーキだったとして、西さんがお刺身だったとして、誰も妥協しないように、半分ずつの量を買えばいいだけのことで、これは妥協とは言えないのだろうと。私がお刺身を嫌いで、西さんがステーキを嫌いならば妥協なんですが・・・。では、この時、私はお刺身にしてあげる、という思いやりのあるジェスチャーができるか?といえば、できない(笑)。あとあと禍根を残すことになるとイヤなので、やらないのです。限られたお金(リソース・材料)の中で解決するには、分量を分けてシェアするのがイチバンなので、何かを後日に持ち越しするようなことはしない。たとえ、西さんが中国や台湾やタイやシンガポールのごはんに飽きていたとしても、です←非情(爆)。ところが、ステーキが食べたい日などというのは、1ヶ月に1回ほどで、日常的には「何でもいいよ」な、中年サラリーマンメンタリティを持つ私は、こんな難問にはぶち当たらないんですが・・・←これが難問かよ!?と言われれば返す言葉がございませんが、食べ物のことはけっこうでっかい禍根を残すように思われます・・・。

 

時間給を取るか、長い時間働いてもいいから総収入を取るか?という難問でも、自分に実力さえあれば、それほど妥協をせずとも何とかなるものですし、他人の頭や心が「対立」するようなところに、私はそもそも属さないので、こういう暢気なことばかり言っているのかもしれません。

 

ニュースによると、http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0803/06/news105.html 職場の人間関係に悩んだ人は75%以上なんだそうで。生徒さんから聞いた話でも、本当にお局様などは実在するそうで、あんなのは笑い話だと思っていた私は、あまりに暢気なのだろう・・・。だったら、やっぱり上場会社は産業カウンセラーは設置したほうがいいだろよ、と思うんだが・・・。

 

内容的には、上司について悩む人が多いらしく、それはやはりTVのニュースを見ていてもよくわかる構造ではあります。どうしてか年功序列や儒教的な年上や経歴のすごい人が意味なく崇められるような形式的美学というのは、政治のような曖昧な結果しか出ないものだけではなく、数値化できるような「営利団体」にも実在しており、そんな怪物には歯が立たないと悩む人は多いのかもしれない。企業派遣で講師をやって思ったことは、これがまかり通っている上場会社はかなり多いということ。「渦中に存在しなくてよかったな」と思うだけ思って、期間が終わってしまえば、それだけであっさりと「うーん、学べた」と思いながら去って行ける立場は、姑息だし、おいしいです。

 

10代で、そんな世界には無縁で生きていこうと思った私は、それを実体験する必要もなく、対立などとは無縁で来てしまったのだけれども、対立が始まる前に、「私は好戦的だから負ける勝負はしないほうがいいよ光線」というのは、出しているかもしれないなぁ・・・とは、ふと思う・・・。いや、実際はまったく好戦的ではないし、サービスレッスンを誰よりもする講師として有名ではあるんですが(笑)。そう思わせることで、無益な勝負や対立はしなくて済むので、妥協する必要もなくなってくるわけです。しかも、私は少数の友だちがいれば満足だし、知り合いと友だちと職場同僚との境界線は、かなり明瞭についていますし、友だちの意見が私と違っても、うまくやっていけると強く信じていますしねぇ。誰にも妥協させない代わりに、私も誰かのためには妥協せず、自分の中の自分とのネゴシエーションだけにエネルギーを使いたいと思うわけですよ。

 

こんな人間なので、子どもは持たなくてよかったと、こんな折に思います。いや、子どもと対立する人って少ないのかなぁ・・・。対立する緊張感っていうのは、悪くもないとは思うんですが、勝負して得られる何かが大きいのでなければ、私は勝負はしませんし、至ってドライなやつなんでしょうねぇ・・・。妥協の境界線を持っているか持っていないかで、やっぱりラクに生きられるかどうか決まってくるね、というお話でした。

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